通信27-16 初めてアルツハイマーの人と話をする

 確かに家主は一人暮らしの矍鑠とした老婦人だった。しかし思い出してみると、入居の御挨拶をしたのは家主の娘さんらしき人、家主である老婦人は娘さんの背後でにこにこと穏かな笑みを浮かべながら我々の言葉に相槌を打つだけだった。その家主と初めて言葉を交わしたのは、実際に棲みついてからしばらくしての事だった。そしてその会話は決して嬉しくはないものだった。

 

 家主が住んでいるのが母屋、いわば私はその離れを借りて住む書生とでもいった感じだろうか。母屋と離れの間の小さな庭が、そしてその庭の真ん中には池があり、池の周りに植えられた丈の低い木々が季節を彩る小さな花を付けていた。私は静けさを噛み締めるように、穏やかな気持ちで庭を眺めていた。その静けさを破ったのは老婦人の叫び声だ。大股で庭を横切る老婦人は離れの縁側に胡坐を掻いた私の前に仁王立ちになると、いきなり「あなたは誰ですか」と強い調子で問い掛ける。私は何かを言おうと口をぱくぱくさせるのだが、そんな私に構わず家主は言葉を続ける。「何ですか。勝手に人の家に上がり込んで、警察を呼びますよ」。ええぇぇ・・・。警察は嫌だな。というか一体何がどうなっているんだ。そうさ、アルツハイマー、その言葉は知っていたが実際に患っている人を目の当たりにするのは初めてだったんだ。「とにかくすぐに出て行きなさい」という捨て台詞を残し、家主は母屋へと戻って行った。

 

 はて、どうしたものかと、カーテンを閉めたまま思案していると、それから数時間経った夕方、家主を伴った娘さんがやって来た。娘さんはまず深々と頭を下げると、母親の非礼をひたすら詫び、そこで初めて自分の母親がアルツハイマーを患っている事、その症状がいかなるものであるかを説明して下さるのだが、おいおい、それなら前もって言ってくれよと思った。もちろんそれを知っていたとしてもこの離れをお借りしただろうが、うん、物事には心構えってものが必要だからね。

 

 娘さんに促された家主は、困惑した顔で私に頭を下げる。困惑?そうさ、自分がしている事に実感がないんだ。多分もう一人の自分がやった非礼をどう受け止めていいのか分からないんだろう。消え入りそうな弱々しい声で「最近はこげんあるとですよ・・・」、標準語に直すと「最近はこういう感じなのですよ」という事にでもなるだろうか、そう呟くように謝られた。

 

 聞くところによるとかつては地元の市内の小学校で校長まで務められたらしい。自信も誇りも持ってこれまで生きてこられただろうに、そんな自分の今をどう受け止めていいのか分からないのだろう。その時の老婦人の何とも言い表しようがない表情は今も私の脳味噌にはしっかりと焼き付いている。うん、こんな顔を見せられるよりは怒鳴られた方がまだましさ。

 

 それにしても棲みついてみると、なかなか面白い街である事が分かってきた。道に面したこの離れは細い路地の中にあった。その路地が、うん、何とも香ばしいんだ。路地の入口にある大きな寺、そこの御住職は、多分酒に頭をやられているんじゃないかね。いや、その御住職だけじゃないぜ、斜め向かいの一軒家に家族と住む中年男、路地の寺とは逆の入り口近くの崩れかけた一軒家に住むタクシーの運転手、こいつも大いに怪しい。少なくとも三人、おっと、私も入れると四人か、この路地のアル中率はなかなかのもんじゃないか。

 

                                                                                                           2022/ 11/ 16.