通信29-12 とうとう聴き手が現れる

 朝からぼんやりした頭でネットニュースを眺めていた。宝塚歌劇団の練習場では私語も、笑顔も禁止・・・。ん?この文言、どこかで見た事あるな。そうだ、中世後期、十二世紀から十三世紀にかけてのキリスト教会では私語も、それどこらか笑う事すらも禁じられていたんだ。あれも駄目、これも駄目、まさにクレヨンしんちゃんとかいうアニメのエンディングテーマ、ダメダメダメダメ・・・・。でも、何だって禁止してしまうのは怖れがあるからさ。この時期のキリスト教は新時代の到来に怯えていたんだ。だからといって新しい時代の到来には誰も逆らえない。こうしてルネサンスは始まった。ああ、近い将来、宝塚の少女たちにも明るい未来が開ける事をひとえに願う。

 

 モテットという音楽形式がある。中世後期に始まったモテットには歌う事の喜びが感じられる。ちょいとおかしなスタイルさ。神を賛美する伝統的なラテン語の低旋律の下に、自由な歌詞、宗教も世俗も、うん、何だってあり、ともかく自由な歌詞を伴った新しい旋律を付け加えるんだ。しかもそれらの歌詞はそれぞれの国の言語で、つまりラテン語の歌詞にフランス語や、イタリア語、ドイツ語、時には同時に複数の言語を纏って歌われたんだ。そんな歌が聴きとれたのかって。もちろん誰も聴きとれやしない。いや、そもそも聴く人間など存在しない。そうさ、初期のモテットは聴き手の不在をわれわれに教えてくれるんだ。つまり当時の人々は自身の内面に、自身の内なる神に向かって歌い続けたんだ。

 

 宗教音楽は時代によって大きな変化を遂げる。初期のグレゴリオ聖歌、初めて一人の作者が全曲を書き上げたといわれるノートルダムミサ、バッハの夥しいミサ曲やカンタータベートーヴェンのミサ、フォーレのレクイエム・・・。ざっくばらんに言うとそれらの曲は聴衆の有無によって二分する事ができるだろう。例えばベートヴェンのミサ曲となると、明らかに聴衆の存在を意識していた事がわかる。また別の項で触れる事になると思うが、元々コンサートいうものは教会の内部で行われていた秘儀のようなミサを一般人に公開する事から始まった。音楽は聴衆という存在を得る事で大きく変化してゆくんだ。

 

 ルネサンス、うん、まさに天才のてんこ盛りとも言っていいだろうこの時代。この天才たちを生み出す大きな契機の一つに、作者に対する他者の出現という事を挙げてもいいだろう。人が神ではなく、人のために創作を始める。もちろんそれを手放しの喜んでいいのかはわからない。何てったってこの時代の成れの果てといってもいいだろう今現在、この薄っぺらいわれわれの時代を思うと複雑な気持ちになるね。いや、でもルネサンスという新しい扉は開かれたんだ。喜ばしい、うん、ともかくは喜ばしという気持ちを持ってこの新時代について考えてみたいと思う。

 

                                                                                                       2024  1  9