通信29-11 ああ 頭の中がコントラバスの音で一杯だ

 頭の中で重低音がうねり続けている。年末からコントラバスのためのソナタにどっぷりと漬かり込んでいたんだ。街中で流れるジングルベルジングルベル鈴が鳴るとかいう浮かれ囃子も、私の頭の中ではたちまちコントラバスの音に変換された。コントラバス、いささか特殊なこの楽器に曲を書くには、そうさ、宮沢賢治の童話に出てくるネズミがチェロのf字孔から楽器の中に潜り込んだように、この楽器にすっぽりと取り込まれなきゃならないんだ。音域も特殊だが、イントネーションもまた独特、チェロのようには扱えない、どちらかというとヴィオラだね。

 

 何故こんな変わった楽器のために曲を書いたのかというと、うん、遺言状みたいなもんさ。訳あって数十年も交わりを絶っていたコントラバス弾きの友人、彼に伝えたい音があるんだ。会わずとも心のどこかで盟友と思っていたその友人、実は三十年近くも前に私のコントラバス協奏曲と演奏してくれたんだ。私にとってこれは飛び切りの思い出だね。どこかのイカレポンチが酔っ払って書き殴ったとしか到底思えない私の出来損ないを、いかにも立派なオーケストラ作品のように人様にお届けする事が出来たのは、ただただ彼のお陰だった。

 

 新曲の譜面を奏者に渡す。相手の反応はもちろん様々さ。でも時折、あらゆる感性を奏者と共有出来たという幸せな感覚に陥る事がある。そもそも譜面なんていい加減なもんだ。そこに書ける事といったら音の高さと時間、後はちょいとした表現の方法、それぐらいさ。でも本当は音と音の間に横たわる混沌としたもの、譜面には決して書き取る事ができないそれこそが表現しなければならないものなんだ。

 

 初めてのリハーサルは練馬区の江古田、武蔵野音楽大学とかいいう馬鹿でかい学校のすぐそばにあるスタジオでやった。音大の正門前で友人を待つ私の視界に飛び込んできたのは、おお、満面の笑顔で大きく手を振る彼の姿だった。その姿を見ただけで、この日のリハーサルが楽しいものなる事を直感した。実際音を出してみると、テンポも、アゴーギクも、ダイナミックスもすべてが私のイメージ通りだった。うん、稀にそんな事があるんだ。

 

 そういえば本番で使うオーケストラの代わりにピアノを弾いてくれたのは、ああ、今ではすっかり有名になった、当時は全く無名だった新垣隆君だ。濃い鉛筆でぐちゃぐちゃに書かれた古代の文様みたいな私のスコアを、これまた私の頭の中のイメージそのままに演奏してくれた。ああ、有難い事だ。彼の凄いところは古今の名曲であれ、私の出来損ないであれ、そこから読み取れる全ての情報を自身の身体の奥底まで一旦招き入れ、それから一気に放出するところだ。奥底まで?そう、身体の奥底まで音を取り込む、これは音楽家にとってとても大変な作業さ。ちょちょいのちょいと小手先で仕事をこなす音楽家は幾らでもいる。でも彼は本当に優れた受容器だった。受容する力、実はこれこそが音楽家にとって本当に大切ものなんだ。

 

 などと昔の思い出に浸っている暇などないぜ。ほら、もう正月だ。門松や、冥途の途のなんとやらと松尾芭蕉先生も仰ってるじゃないか。もう時間がないんだ。さあ、去年の続きを。音楽の歴史。ルネサンス。中世がモノクロなら、世の中が一気に鮮やかな色を纏うようにすら感じられるルネサンス。さあ、ルネサンスについて書いてみようじゃないか。

 

                               2024 1 3