通信22-40 リハビリは続く

 リハビリは続く。ここ数日はひたすらチェロという楽器のために重音を書き続けた。重音?うん、ヴァイオリンだのチェロだの、ああいう楽器は折角四本も弦がついているんだから、数本の弦を同時に鳴らして和音を奏でないと勿体ないじゃあないかね。セバスチャン・バッハが書いたチェロのための伴奏のついてない組曲、あの譜面を眺めていると、重音の使い方の上手さ、要所要所に建てられた柱のような重音、ああ、まさに大黒柱ってなもんさ、その重音の使い方に惚れ惚れするね。

 

 この重音ってやつ、ブランクがあるとこの種の技がスムーズに使えなくなるんだ。いちいち頭の中で指板、弦を押さえる板の事さ、その指板を思い浮かべながら書いてゆくんだが、ああ、いちいちそんな事考えながら書いても仕事にならないさ。以前ならすべてを私の手が憶えていた。立ち止まって考える必要などなかったんだ。

 

 ガキの頃は、いちいちろくに弾けもしないヴァイオリンを引っぱり出して指の位置を確かめていた。チェロだったらヴァイオリンよりも一回りも大きいから、こんな指の形になるのだろうか、などとあれこれ思い浮かべながら。うん、そういうのも作曲の修業の一つなんだ。演奏してくださる方の指を労わるってのもさ。

 

 当然ながら我々が言う狭い意味での作曲ってのは手を使って音符を書き込んでゆく行為なんだが、いちいち考え込んでいては駄目なんだ。立ち止まるたびに音の像は貧しい断片と化してゆく。音楽ってのは継ぎはぎだらけじゃあいけない。滔々と流れ続ける、うん、それが音楽ってもんさ。我々がやるべき修行、それは頭と手を一致させるための修業だ。頭と切り離せない手、その手を持つために長い時間を修業に費やすんだ。

 

 ブランクができると、次第に手を頭が分離してゆく。最初は違和感を覚え、うろたえ、さらにその違和感が強まり、やがてあきらめ、酒でも飲み続けながらくたばるのを待っていようかなあなどという生活に落ち込んでゆく。ネットの掲示板でよく見る書き込みを真似るなら「落ち込んでゆく←いまここ」などとほとんどなりかけていたところさ。

 

 そこに芥川の小説みたいに、情けない私の目の前にすうっと蜘蛛の糸を垂らして下さったチェロ弾きのお姉さんが現れたって訳だ。ともあれ音を書く対象、そいつが何より必要だったって訳さ。瓶の中に手紙を詰めて、誰の手に渡るのかも分からないままに、遥か異国を目指して海に流すなんて事をして満足するには、作曲という行為はあまりの手間がかかり過ぎる。

 

 ああ、でもガキの頃に真面目に修業をしていてよかった。一度自転車に乗れるようになると、一生その乗り方を忘れないというように、意欲さえあればかなりの速さでリハビリができる事がわかった。意欲、うん、やはりこいつがあれば大丈夫さ。「人間は何かに負けるんじゃない。ただ内側から腐ってゆくのだ」というフェルディナン・セリーヌの言葉が改めて身に染みるってなもんさ。

 

                                                                                                               2020. 3. 11.