通信24-41 朝っぱらから大交響曲を

 ぽっかりと時間が空いた朝だった。さて何をして過ごそうか?そうだ、数日前に知人がDVDを貸してくれたんだ。そいつを見なくちゃね。ええと、ベートーヴェンの九番目の交響曲、うん、何だか長そうだね。しかも難しそうだね。よしってんで濃いめの珈琲を淹れ、気持ちも新たにパソコンの画面に向かう。

 

 ふふふ・・・、うん、思わず笑ってしまった。というのも指揮者の顔がさ、ちょいと左斜め前から見ると、あの前田吟さんにそっくりなんだ。その指揮者の妙に緊張した真面目な顔を見ていると、今にもフーテンの寅こと渥美清さんに向かって「兄さん」とでも呼び掛けそうな気がしてしょうがなかったんだ。

 

 あれ?オーケストラの中に、ぼちぼち知った顔がいるぞ。データを見ると二十年ほど前の録画か。そういえば丁度その頃、この連中とばったり顔を合わせた事があったなあ。唐津という街にふらりと遊びに行った私は、たまたま帰りのJRの駅で、唐津公演を終えたばかりの彼らとばったり出くわしたんだ。その時、彼らと会うのは確か二十年振りぐらいだったと思う。

 

 ヴァイオリンのケースを肩に掛けた某君が、心底驚いたという顔で近づいて来る。ふと彼は一人で納得したように頷き、私に向かって「やっぱり唐津にいたんだね」と言う。えっ?どういう事?と訊き返す私に向かって「太田さん、確か唐津で陶芸家をやっているって誰かに聞いたけど」などとほざくじゃないか。おいおい、誰がそんないい加減な噂を流してるんだよ?すると横からビオラを持った某さんが「えっ?私は、太田君は神戸の中華街で肉まんを売っているって聞いたけど」。そこに割り込むように入って来たまた別の某君は「俺は、もう死んでいるって聞いたぞ。沖縄でハブに噛まれたとか・・・」と、あまり嬉しくない噂を教えてくれた。まったく、音楽家ってやつらは、無責任な噂話にどんどん尾鰭をつけて広めるのがとことん好きな人種なんだ。

 

 ともあれ、オーケストラのDVDなんて初めて観たけど、なかなか面白いもんだねえ。それにしてもこの交響曲、何だか凄いね。さすがはベートーヴェン大先生の作品だと何度も唸りながら聴いた。うん、何だかドラマでも観ているような感じなんだ。いきなり冒頭の空虚五度。ドミソの和音の中からミの音だけを抜くと、とても不気味な幅広い空間を感じさせるような響きになる。まさに何かが始まるぞという演出だね。

 

 四番目の楽章は、うん?これは巨大な変奏曲と思っていいのかな?あの有名過ぎる主題が、次々に形を変えて現れる。終わり近くなって現れたフーガ、おお、巨大な二重フーガ、ええ?これって一体どうやって指揮するんだい?ちなみにフーガというのは一つの旋律を、新しいパートが次々と追い掛けてゆくんだが、ここでは二つの違うフーガが同時に流れてゆく。

 

 ああ、一通り聴き終えただけでくたくたじゃないか。静かな朝にリラックスした一時を・・・などという私に甘い目論見は粉々に砕けてしまった。うん、何だかどきどきするね。ああ、こうしちゃいられない。さあ、早速新作「冬の日」のメモ帳を取り出すんだ。

 

 ついでにも一つちなみに、四楽章の有名な主題は、シラーの「歓喜に寄す」という詩にインスピレーションを受けて作られたものだと思われがちだが、実際はベートーヴェンがまだ二十代の頃、チェロソナタの主題として発想したものだ。未完のチェロのソナタの下書き帳の中にこの主題ははっきりと書き留められている。

 

                                                                                                   2020. 11. 24.