通信22-39 ベートーヴェンは雨戸にも音符を書いたらしい

 久々にいつもの朝が戻ってきた。いつもの朝?うん、寝ぼけまなこで珈琲を啜りながらバッハのコラールと戯れる朝さ。これまで何十年もの間、勉強しているという感覚で読み込んでいたバッハの譜面だけど、最近はただただそれらに触れるのが楽しくてしょうがないんだ。

 

 元々、教会旋法の上に成り立っているバッハのコラールを調性に押し込み、しかも1801年に作られたローマ数字式の和声記号を書き入れて一体何になるのだろうかという虚しい思いを噛み殺しながら取り組んできたが、うん、二十代の半ばから始めて、もう四巡目になるだろうか、でもこれでお勉強は最後にしようと思っている。後はただただこれらのコラールを弾き続けるだけさ。どこまでも音の中に遊びたい。そうしているうちにくたばってしまうのなら、ああ、なかなかの良い人生ってもんじゃあないかねえ。

 

 この一週間ほどはひたすら譜面を書き続けた。ピアノの小品をともかく書けるだけ。机の上を掃除したら、ああ、うんざりするほどのメモが出て来たんだ。ちょこちょこと頭の端を掠めた旋律の断片や、何となく浮かんで来たコード進行を書き留めた物。書き留めた紙が、チラシの裏だったり、新聞紙だったり、雑誌の裏表紙だったり、ああ、そんなこんなでやたらとかさばっていたんだ。

 

 そういえば、かのベートーヴェン大先生は、思い浮かんだモティーフを片っ端から落書きのようにあたり構わず書きつけておられたそうだが、雨戸にまで音符を書いてしまい、熱狂的なコレクターでもあるファンのやつらからその雨戸を盗まれてしまったらしい。ちなみに自筆を欲しがるファンは多く、有名な熱情ソナタの自筆譜、その第二楽章の主題は切り取られ、多分切り取った者によって書かれたものだろう、まったく違う筆跡の音符が貼り付けられている。

 

 さて、それらのメモを捨ててしまうべきか、或いは下書き帳にきちんと書き留めておくべきか。いや、いっその事ちょちょいのちょいと曲にしてしまえばいいじゃあないかと、そう思ったのは、そうさ、買ってきたばかりの卓袱台で机の上にスロープを作ったからさ。ともかくそのスロープに五線紙を広げてみたかったんだ。

 

 そうやって書き上げた曲が一つ、二つ、三つ・・・おいおい、いくつあるんだ?いや、いくつだっていいさ。どうせこれらの小品はこの春に書き終わるホルントリオと、秋に取り組むチェロ協奏曲に呑み込まれてしまうんだ。無数の小品を呑み込んでしまうようなたっぷりと豊かな協奏曲を最後に書きたい。ともかくそれがこの半呆け老人のささやかな願いって訳さ。

 

 今朝、目を覚ますと、ずっと腹の奥に抱え込んでいるホルントリオの中間部がこれまでに考えていたものと、全く変わっていた。多分、小品に頭を突っ込んでいた結果さ。ホルントリオの事はこの一週間ほどほとんど考えてなかった。でも無意識の内に体の中で刻々と変化してゆく、ああ、これこそが作曲の楽しさだね。

 

                                                                                                                 2020. 3. 7.