通信29-13 ○○家の馬鹿娘ですら初見で弾けた

 ルネサンスの三大発明というと羅針盤、火薬、活版印刷だっけ?コロンブスが新大陸を発見し、コペルニクスは地動説を唱え、うん、新時代の到来さ。さあ、こうなると音楽もすっかり新しい時代の波に呑み込まれてゆく。例えば十数年ほど前にいろいろと話題になった絶対音感、この絶対音感という概念だって交通によって生み出されたと言われている。道路が整備され様々な都市同士の交流が盛んになる。そうすると街々によって音の高さが違っているってのは何かと不便だ。よし、ならば統一してしまおうって訳さ。

 

 活版印刷の発明により、譜面を大量に印刷して幅広く販売するという事が可能になった。記譜法は1000年頃より急速に発展していったが、中世期に作られた譜面は教会や宮廷に献本するものだとか、あるいは身内でささやかに情報をやり取りするためのものでしかなかった。さらには実用性のない、つまり演奏には使えない譜面も多く作られている。例えばコンパスを使って円の形で書かれた五線紙に音符を並べた輪舞曲、ハートの形に引かれた五線紙に書かれた恋歌等々。だがこれらはとても実際の演奏に使えるものではなかった。少し時代は後になるがヨハンネス・ケプラーは「惑星の音階」なるものを譜面に残している。これはそれぞれの惑星の軌道、距離、速度などを数値化してその関係を音に移し替えたものだが、もちろん実際にそれらを音にしたからといって特に意味はないだろう。

 

 印刷技術の進歩により幅広く不特定多数に人間に譜面を販売する楽譜商という新しい業種が生まれた。グーテンベルグ活版印刷を発明したおよそその五十年後の1501年、ヴェネツィアペトルッチという会社に始まった楽譜販売業はわずか半世紀の間に、アテニャン、アントワープニュルンベルグなどヨーロッパ主要都市に広まってゆく。譜面の購買者の中には専門の音楽家に混じって裕福な家庭の素人も多く、多数の販売を目論む出版社や作曲家たちは、次第に演奏の容易な作品を作るようになっていった。

 

 18世紀、華やかな貴族文化が栄えた頃には、裕福な子女たちにとって楽器の演奏を嗜む事は一つの教養の証しとなり、新作の演奏が簡易である事を伝えるため「○○家の令嬢が初見で弾いた」などと書かれた新聞広告までが現れた。多分社交界を華やかに渡る彼女たちは今のアイドルのように、美しさと、いささかの馬鹿さ加減で注目されていたんじゃないだろうか。「○○家の令嬢が初見で弾いた」の文言にはどうも「○○家の馬鹿娘さえ初見で弾けた」というニュアンスが隠れているような気がしてならない。

 

 ともかくもルネサンス、この頃から専門の作曲家といえるような存在が現れ、同時にそれは専門の演奏家を生み出す事になる。もともとはひとりの人間により即興的に作られていた音楽がより専門的な技術を持った存在により分断されてく訳だ。当然この事は音楽の在り方を大きく変えてゆく事になる。

 

 言うまでもないが、作曲という行為は作者の内にある混沌から出発する。その混沌を切り捨ててしまうような明晰な形で譜面は完成する。その完成された譜面を手にする事から演奏家の仕事は始まるんだ。果たして捨て去られた混沌は元々不要なものであったのだろうか。専門家の高度な技術によって作られた演奏はどこまでも美しい、だがその美しさは時にあまりに空虚さを感じさせる。その是非を今ここに書き記すつもりはないが、音楽というものを、世の中を彩る一つの装飾品以上のものに感じている私は、昨今の音楽を耳にする度に湧き上がってくる複雑な思いを、長い間持て余し続けている。

 

                                                         2023  1  12