通信21-21 友人からのお知らせ

 確か先週の事だったと思う。いつものように練習の為にスタジオに入ると、ロビーでいきなり誰かから呼び止められた。ロビーに集まった人々の間から風に吹かれたようにふらりと人影が近づいてくる。おお、哀愁のファゴット吹き、埜口浩之君じゃないか。随分と久しぶりだねえ。盟友というか、親友というか、ともかく付き合いの長いこの人に会うと、何やら嬉しくて仕方がない。

 

 今日は何のリハーサルかな?という私の問い掛けに、来月アメリカからルー・タバキンを呼んでコンサートを開くというんだ。その時、タバキンと共演するビッグバンドのリハーサルをこのスタジオでやるらしい。えっ?タバキン?私は三度ほど訊き返した。どのタバキン?あのタバキン?

 

 そう、そのタバキンだと埜口君は笑う。うううん、良いじゃあないか。タバキン、素晴らしいサキソフォーン奏者さ。その演奏は品格に溢れていて、あまりに自然なんだ。あまりに自然なんで、それが逆に存在を際立たせる、下品な自己主張などとはまったく無縁、うん、いわば一つの理想だね。音楽家としての理想的なありかたさ。

 

 そのタバキンをアメリカから埜口君が読んでくるのかい?へえ、面白いね。今回は呼び屋、埜口浩之って訳だね。ちなみに呼び屋ってのは、どこかから演者を招いて、コンサートを企画する人々の事だ。置屋ってやつもいるが、こっちは演者を管理して呼び屋に貸し出す、いわば人材派遣業みたいなもんだね。

 

 実はこの埜口浩之という呼び屋、その正体は一流の音楽家なんだ。いささか畏れ多い気もするが、私はこれまで二曲のファゴット協奏曲を彼に初演して貰っている。若気の至りさ。といってももちろん埜口君も若かった。まだ学生だった彼と、音楽家としてしっかりとしたキャリアを積み始めた彼と、うん、どちらの演奏会も強く印象に残っている。

 

 音楽家にとって大切な要素が二つある。一つは表現するべきものを自身の内側に持っているか。もう一つはその内側にあるものを率直な形で表現するだけの技を持っているかだ。彼は、ああ、まるで一本の樹木のようなんだ。樹木が土から養分を吸い上げるように、そしてその枝葉を風にそよがせるように、あらゆる自然と一体になるその愉楽を知っている。うん、その点ではルー・タバキン氏によく似ているね。

 

 それでも彼のような生粋の音楽家が、プロの演奏家として暮らしていく事は決して幸せな事だとは言い切れない。場合によっては他人の、しかも自然とは到底言えないようなスタイルの音楽を押し付けられ、またそれに即座に応えるような技を持つ事を要求される。多分彼なりに大きく苦しんだ時期があった事だろう。そういえば十年以上も顔を合わせる事が無かった時期もあったような気がする。

 

 でも、数年前、近所のライブハウスでたまたま彼の音を耳にした時には本当に驚いた。そこで私は、どこまでも自由な、彼の内側の自然というものがそのまま音になって流れ出してくるような演奏を聴いたんだ。そうさ、本当の意味の技を手に入れたのさ。その事を知り、私は涙が出るほど嬉しかった。いろんな事があってさ、時にはずたずたになってさ、自由、うん、ようやくそいつを手に入れたって訳さ。私がその時耳にしたのは、譜面に書かれている事を上手く翻訳するってな類の演奏じゃなく、心の中に浮かんだ事をそのまま音にして溢れさせるような演奏さ。うん、何よりだ。でも、この埜口ってやつ、もう一度、大きく変わるんじゃあないだろうか、ああ、そんな気がしてならないんだ。

 

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追記)ルー・タバキン氏のコンサートについて、別のブログにご案内の記事を載せました。そちらも御覧いただければ幸甚です。