通信22-14 知人の演奏会に出掛ける

 一週間ほども続いた、一旦転がり出せば止まり方をしらない玉のようにすっとこどっこいな私の歩行も、最後はあるホールでようやく落ち着いた。昔の知人が自分のリサイタルの招待券を用意してくれたんだ。その名を太田圭亮君という、かつては活動を共にしたヴァイオリン弾きさ。

 

 十年ほども行き来が途絶えていたが、別に喧嘩してたって訳じゃない。私が病気で引きこもってしまい、その結果疎遠になったってなだけの話さ。いや、もうそんな辛気臭い事はどうでもいいんだ。ともかく彼の演奏会に出掛けたんだ。

 

 うん、十年ってのは長いね。すっかり人を変える事のできる時間、そいつが十年さ。何かを掴んだ、そんな手応えを感じる演奏会だった。何を掴んだのかって?そいつは速度ってやつさ。生きて、活動してゆくのに適正な速度、うん、彼は速度というものとようやく和解したんだ。

 

 そうだね。もう彼もいい歳なんだね。人生は往路と復路さ。彼もようやく復路に入ったんだ。元々、私が知っている彼は、うん、危険運転、若さに身を任せたまるでチャリンコ暴走族、荷台にたっぷりと積み込んだ荷物を惜し気もなく振り飛ばし、ひたすらどこにあるのかもわからないゴールを目指し走り抜けてゆく、それが往路を駆ける太田圭亮だった。

 

 復路、そうだね、決して駆けちゃあいけない、往路ではそれに気づく事もないまま惜し気もなく振り飛ばした大切な物、腰を屈めてそれらをゆっくりと拾い集めてゆく、それが正しい復路の歩き方さ。年寄りが腰を屈めて歩くのは、かつては気づく事のなかった大切な物を拾い集めるためなんだぜ。

 

 それで具体的にどんな演奏だったのかって?うん、一言で言うと音が線から面に変化していたんだ。響きをたっぷりと含んだ面としての音楽、肝心なのはここさ。色白は七難を隠すってな言葉があるが、面の音楽はさまざまな形で起こる小さな事故や演奏上の疵までをも魅力的に聴かせてくれる事があるんだ。

 

 かつてはそこに書かれている音をさんざんに振り回し続けていたわがままなヴァイオリン弾きだった彼は、うん、今は音に弾かされている。音楽ってのは情緒的な力学なんだ。音そのものが法則に則って動きたがっている、その法則に逆らい、自由に振る舞おうとしたところで徒労に終わるだけさ。はっきり言うと私は演奏など聴くのはまっぴらなんだ。本当に聴きたいのは作品ってやつさ。その作品というものを聴き手として演奏家と共有する、それが私が思う音楽を体験するってな事なんだ。

 

 ようやく音楽を共有できそうな彼と、また久しぶりにゆっくり飲んでみたいね。数か月前に飲んだじゃないかって?ああ、あの時はしけこんだモンゴル料理店のそばにあった「未熟な熟女」とかいうキャバクラに気を取られていたからね。うん、今度またゆっくりと十年という時の長さを噛み締めるように飲もうじゃないか。実はずっと眠りこけていた私も十年ぶりに目を醒ましそうなんだ。

 

                                                                                              2019. 12. 28.