通信22-15 最後の晩餐ってやつを楽しむみたいに書きたいと思っている曲があるんだ

 来年は春にホルンを使った室内楽ものを一つ、秋にチェロ協奏曲を一つ、これを仕事の柱にしようと目論んでいる。ホルンの曲は数年前に書いた協奏曲の焼き直しになる予定だ。という訳で数年前に書いたその協奏曲のデータを探しているんだが、なかなか見つける事ができない。その時の私は今よりも数段目が悪かった。到底手書きの譜面など作る事も出来ず、パソコンの画面の中に一杯に引き伸ばした巨大な音符と戯れるように過ごしていた。おいおい、大丈夫かい?パソコンのモニターから四分音符がごろごろと転がり落ちてくるんじゃないだろうな?

 

 うん、この文章を書いていると次第にその時の事が思い出されてくるね。実はその曲の主題、それすらも朧気なんだ。面白いもので視野が曖昧な時の記憶は、何故かやはり曖昧なんだ。この曲について覚えている事、ああ、確か作曲したのは秋だった。これから書き取るテーマの事で頭を一杯にしながら道を歩き回っていた。ある角を曲がるといきなり目の前に大きな銀杏の木が現れ、遅い午後の傾いた陽射しの中できらきらと光りながら銀杏の葉が舞っていた事だけははっきりと思い出す事ができる。

 

 この曲の事を思い出そうとすると、この銀杏の木が記憶の中に一杯に枝を広げ、肝心の曲の内容を隠してしまう。まあ、その程度の曲だったって事だろうね。普通に考えればそんな曖昧な状態で書いた作品が使い物になる訳がないさ。うん、一から書き直しだろう。いや、上等じゃあないかと嘯いてみる。いいさ、今の私は何やら、あれもこれも、どれもそれも何だって漲っているんだ。

 

 秋には何とか時間をやりくりして、また昔みたいに、うん、海でも山でもいいさ、どこかに一月ほど籠ってチェロ協奏曲を仕上げてみたいという思いがむらむらと込み上げてくるんだ。そんな事をこの数日の間考えている。作曲という行為の中で最も楽しい時間さ。この微妙に作品から自由に距離が取れている時間、今この時、どれぐらい心ってやつを自由に遊ばせる事ができるか、それによった作品の出来は決まると思っているぐらいだ。

 

 ともあれこのチェロ協奏曲、何だかこの糞っ垂れた私の人生とか言いうやつの中に突然現れた最初で最後の贅沢になるような気がする。

 

                                                                                                      2019. 12. 29.