通信22-16 死の棘日記を買う

 

 三日ほど続けて知人らと飲み、昨日は一旦落ち着こうと散歩がてら買い物に出た。新作のメモを採るためのノートが必要だったんだ。ノートを買うのはほぼ十年ぶりだ。ノートを求めて文房具屋の店内をうろつくと、これから書く作品とようやく向かい合えるというような心地よい緊張感で胸が一杯になる。うん、それにしても文房具屋ってのは何やら清潔な感じがしていいね。若い頃の自分なら表紙の色だけが違う同じノートを一度に十冊二十冊と買い込んだんだが、今回は年寄りらしく控えめに五冊だけをレジに運んだ。表紙の色が違うものを五冊、色を変えるのは同時に複数曲のメモを採るのに便利だからさ。

 

 ついでにと古本屋に立ち寄ると、おお、島尾敏雄の「死の棘日記」が驚くほど廉価で売られているじゃないか。そいつも買い込むが、うん、そんな本を鞄に入れていると落ち着かず、家に帰るまで待てないという気持ちになって、そのまま喫茶店に潜り込み、一番隅の窓際の席で早速読みふける。

 

 内容はほとんど同じだが、日記は小説と違い作品としての文体を作らず淡々と事実だけを書き記しているだけに強く悲惨さが伝わってくる。日記という性質上、自分自身にしか分からない言葉が随所に並んでいていささか面食らったが、そういうのにも次第に慣れてくるもんだね。

 

 陰惨さを表に出した小説は多々あるが、陰惨の底でぐずぐずと蠢いているようなものは読みたくないね。島尾の「死の棘」の場合はもはや陰惨の底、その底ってやつがぽおんと抜けているようなところが良いな。つげ義春なんか読んでいても同じようなものを感じるが、きちんと他者の視線が入っていてさ、うん、陰惨ってのは本人にとっては大変だけどさ、どこか冷めてみると滑稽さと紙一重だからね。

 

 そういえば映像化された「死の棘」を観た時の事だ。反省を促された岸部一徳演じるトシオが裸でじっと座っている。何故か反省を促す方の松坂慶子演じるミホも裸で座っているんだ。しかも二人横並びで。突然耐えられなくなったトシオが立ち上がり、鴨居にロープを掛けるとそのまま首を吊ろうとする。それを見ていたミホが俄然立ち上がり、死ぬのなら自分が先だとかいうような事を叫びながら、トシオが首を突っ込んでいるロープの輪の中に自分も首を入れようともがく。私はもう可笑しくてたまらず必死で笑いをこらえた。しかも映画館の中のお客さんたちは真面目な顔をしてじっとその画面をみつめているんだぜ。

 

 いや、もう陰惨だろうが、滑稽だろうがどうだっていいんだ。ただただ透徹な視線で物を視て、そいつをきちんと書き取りたい、それだけさ。買ってきた大学ノートのその隅々にまで正しい音符だけを、うん、主観と客観が美しく吊り合った音さ、そいつをびっしりと書き込んでやろうとそう思っているんだ。

 

                                                                                                     2019. 12. 31.