通信20-19 一日の終わりに子守唄を聴く

 ぼこっという音、そいつは机が上げた悲鳴さ。その悲鳴を耳にして以来、引き出しの上にキーボードを乗せて作業するなどという雑な事はしていない。机をよく観察してみてようやく気付いた事、それはいつもきちんと引き出しを閉めていなきゃあならないという事だ。そもそも天板についている支柱だけで物がいっぱいに詰まった引き出しの支えるなんて不可能な事だろう。うん、実は引き出しは横に二つ並んでついている。これが味噌だったんだ。要するに二つの引き出しが互いに真横に向かって押し合い、支え合っているって訳さ。アーチ状の橋、石橋であろうが木橋であろうが関係ない、あれらの橋には一切の接着剤も釘も使われていないというが、まあ、あれと同じような原理だね。


 ともあれ机の板一枚分、作業台が高くなった訳だ。私は椅子が低い事で有名なピアニスト、グレン・グールドのように、いやいや、そんな大層なもんじゃない、入学したばかりで妙に机を高すぎると感じている小学校一年生のように、窮屈と闘いながらこの文章を打ち込んでいる。


 いや、まてよ、そうか椅子の上に座布団を敷けばいいんだ。おいおい、この家に座布団なんて気の利いたもんはないぜ。ええい、面倒だ、ならば布団で十分だと、暑くなったってんで仕舞かけていた掛け布団を畳んでその上に座ったら、おお、いきなり無茶苦茶に座高が高くなってしまったじゃあないか。嬉しくなってつい、「わはははは」と馬鹿みたいに笑ってしまった。笑点とかいう番組で、ハワイ行きは目前だというぐらいまで座布団を貯め込んだ落語家みたいだ。パソコンの画面がはるか下方に見えるぞ。うううん、ジャイアント馬場とか、ああいう人はこんな感じでパソコンと向き合っていたのかねえ。いや、馬場選手がパソコンをやっていたとは思えないね。あのでかい指ならさ、うん、多分一度に三つぐらいのキーを押してしまうだろうね。


 そういえばピアノの鍵盤、あれは日本人にはちょいと大きすぎるんだよね。手のひらを大きく広げたまま素早く楽句を弾きこなすという奏法があるんだが、実は、そいつはいささか危険なんだ。手のひらを広げると、広げた手のひらが受け止める力は当然分散し、いわば手のひらってもんの弱点を露呈するという事になるんだ。広げた状態を固定したまま演奏を続けると、ピアニストにとって致命的な病気に襲われる。腱鞘炎ってやつさ。


 昔、亡くなった作曲家の中田喜直先生、夏が来れば思い出したり、小さい秋をみつけたり、ともかく小さくて魅力的な曲をこれでもかと書きまくられた大先生、この先生が日本人に合ったサイズのピアノを作ろうという運動を興し、実際に某ピアノ制作会社に持ち掛けて小さな鍵盤のピアノを作らせたんだ。残念ながらその運動は広まる事がなかった。これからはボーダレスに活動をしていきたいと息巻いていた日本のピアニスト達に、日本人向けの小さなピアノなんて、縁起の悪いものにでも思えたんだろうかね。


 現代のピアノには世界共通の規格ってなもんがあるんだが、それを決める際にモデルになったピアニスト、残念、名前が思い出せない、確か北欧生まれでシロティという大ピアニストの弟子だった人だと思う、そのピアニストの身長が一メートル九十センチを超えていたというから、体が小さい日本人にとっては何とも迷惑な話だね。


 以前、ピアノを教えてくれとうちにやって来る若い人の多くが、ほとんどが音楽専門の大学で勉強していた人たちなんだが、手を痛めていて、レッスンの多くを、そのケアに費やした記憶がある。若いうちはどうしても無茶な練習をしてしまうからね。


 昨日は久々に夜のスタジオで練習した。楽器の練習はなるべく朝の内に済ませて、午後以降は原稿書きに打ち込みたいと思っているんだが、スタジオ予約の抽選に外れると、夜、残され坊主みたいに寂しい気持ちで楽器をさらう事になるんだ。


 練習を終え、楽器を片付けていると、ああ、隣の部屋からチューバの音が漏れ聴こえてくるじゃないか。ああ、優しい歌い方だね・・・高音のヴィブラートが奇麗だね・・・うん、張り詰めていた気持ちが緩んでくるじゃあないか。これはうちの甥っ子と同じ楽団でチューバを吹いておられるМさんの音らしい。チューバの音を聴いていると何となく眠くなってくるのは、フェリーニの名作「オーケストラリハーサル」の中で、チューバ吹きが子守唄を奏でるところを思い出すからじゃないかな。うん、一日の終わりに良いものを聴いたね。そんな事を思いながらスタジオを後にする。僕も帰ろ、お家へ帰ろ、でんでんでんぐりがえってばいばいばいってなもんさ。


                            2019. 5. 25.