通信26-17 記憶の記録

 長らく私の仕事を手伝ってくれていたT君が、ふらりと我が家に現れたのは先月末の事だったか。彼はお土産だと笑いながら、二本のヴィデオテープが入ったコンビニ袋をぶら下げていた。「あんたは物持ちが悪いから、当然こんなものは持っていないだろう」と言いながら袋から取り出したヴィデオには、昔の私のコンサートの映像、二十年ほど前のものと、十年ほど前のものがそれぞれ収められているという。

 

 へえ、などと驚いて見せながらも、こんなもの観たら、またまた悪夢にうなされる夜が続くんじゃあないかと内心思っている私を、さあさあとT君は急かして街中のダビング屋へと連れて行った。うん、今となっては機材も手に入りづらく、観るのも一苦労というヴィデオテープを、便利なDVDとやらにダビングするためさ。

 

 この映像、ホームページに並べようと言うT君の言葉に、ああ、でもこの映像は古すぎて、ちょいと今更人目に晒すのはみっともないんじゃないのかねえ、などと思っていると、近所の秋月城にお住まいのМさんというお姉さんから、多分いろいろと修正もしてくれるんじゃないかというダビング専門店を教えてもらい、とりあえずその店にテープを預け、データ化していただいた。

 

 いきなりややこしい話になって申し訳ないが、われわれは幼い頃から音楽を譜面で学ぶ。現代の五線記譜法は、音は点であり、旋律とは連続する点だという事を、いつの間にかわれわれの脳裏に刷り込んでしまう。でも私は長い事、旋律は点ではなく線だ、響きは点の集合ではなく面だと、そう思い続けてきた。もっとも過激にその考えを実現しようとひたすらに取り組んでいた頃の演奏が、この古いテープには収められていた。

 

 さすがに二十年以上も前の演奏だ。今となっては、きちんと距離を置いて鑑賞する事ができた。まるで半ば他人の音楽みたいにさ。上手くいっているところも、いっていないところもあるが、それでも若い頃の自身のこだわりを改めて確認する事ができた。

 

 それにしてもがちゃがちゃとうるさいこの演奏。でもね、実は本気で静寂を目指していたんだ。私がそう口にすると、当時の仲間たちは皆「えぇぇぇ・・・」と驚きとも、非難ともとれるような嘆息で応えた。うん、でも大いに本気だったんだ。空間に単発で音を投げ込むとうるさいが、規則的に音を並べるならばそれは静寂に近いのではないかと思っていた。いや、今も思っている。空っぽではなく、大いに情報に溢れた、恐ろしく密度の高い静寂。そんな静寂を描く事を夢見続けていた頃の演奏がこれだ。

 

 この演奏の先にいつか本物の、まるで真夏の、漆黒の、うねるような静かな夜そのままの静寂を実現できるのではないかと信じていた。それでまだまだ未完の、この演奏の続きは?うん、今はもう駄目だね。三度の病気を経て、とてもじゃないが頭の中に描き続けた自分の音楽というものに、すっかり太刀打ちできない心身になってしまった。でも今の私は、体力がなければ実現しない音楽って何なんだろうね?そんなものに何か価値があるのかねえ?などという素朴な疑問も持っている。

 

 とはいえラッパは吹けないが、譜面を書く事ならできる。うん、元々ラッパを吹く事は自分にとっては単なる趣味でしかなかった。自分の仕事、それはひたすら音符を書き続けることだ。それでさ、今の私はまるで塗り絵に没頭する幼稚園児みたい、ひたすら五線紙を黒く塗りつぶすかのように音符を並べ続けているんだ。


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                       2021. 7. 17.