通信26-17 ほうら、空には業の花びらがいっぱいで

 昨夜は厚かましくも知人の家へとお邪魔し、そこでだらだらと酒を飲んだ挙句、だらしなく寝込んでしまった。ふと目を覚ますと、部屋の中は薄暗く、棚の上に置かれたCDプレイヤーの液晶版が3:55という数字を示している。急いで身支度を整え、知人宅を後にする。ああ、街はようやく青みがかった空気に包まれたまま横たわっているかのようにそこに在った。まだ新聞配達員も走り回り出す前の静かな朝を、自分の立てる足音に耳を澄ましながら歩く。何だか胸がずきずきと痛むのは、うん、ここ数日読み込んだ宮沢賢治の詩句のせいさ。

 

 宮沢賢治とほぼ同時代を生きた中原中也。ともに早逝したこの二人の詩人は、面識こそなかったらしいが、ある日、本屋の店先に積んであった宮沢の第一詩集「春と修羅」、その本をたまたま手に取った中原がその内容に驚嘆し、そのままそこにある数冊を買い取って、友人たちに配ったそうだ。ああ、ありふれた言い方をするならば「天才は天才を逃さない」ってやつだね。

 

 宮沢が生前に出版した詩集は、ん、もちろん自費出版ね、この「春と修羅第一集」だけだが、この詩集は四巻まで続く。妹としの死に始まる連作は最後、自身の死を歌ったところで終わるを告げるが、その短い生涯のさらに僅か数年の間に、希望から絶望へと移り変わってゆく宮沢の心情はあまりに痛ましい。

 

 中原中也の酒癖の悪さは有名だ。酔っては人に絡み、挙句の果てその小さな体躯で相手に殴り掛かり、あべこべに情けなく抑え込まれてしまうという愚行を繰り返していたらしい。自分を押さえつけた相手、例えば草野新平、例えば檀一雄、例えば・・・、彼らが去って行くその後ろ姿に向かって、「わかった、お前は強いよ」と捨て台詞を吐き、立ち上がって服の埃を払い、酔った足でとぼとぼと歩き出す。その時によく口ずさんでいた詩が宮沢の「業の花びら」だったと、誰かが証言していた。低い濁声で「空には業の花びらがいっぱいで・・・」と吟じる中原の心中を思うと、うん、何やら人が詩を書いたり、詩を読んだり、その根源的な理由がじわりと伝わってくる気がするんだ。

 

 夏の朝、薄暮に包まれた自分の部屋にようやく帰り着き、電気も点ける気にならず、そのままベッドへと倒れ込んだ。酔いはまだまだ残っている。自分の意識が闇に紛れるように眠りに落ち、ふと気づくと、おお、窓の外では街を丸ごと押し流してしまいそうな凄まじい雨が。恐ろしい雨だが、同時に清々しさを感じる。もし寝ぼけていなければ、私はその雨に打たれるべく外に飛び出しただろう。毎夏、夕立が来るたびに、私は我慢できず、雨の中へと飛び出してしまう癖がある。

 

 雷鳴が轟き、家が揺れる。そうだね、いっそ知人の家にそのまま留まっていれば、共にビールでも流し込みながら、この強烈な雷雨を楽しめたのにと、いささか残念に思う。でもさ、ほら、また一歩夏に近づいたぜ。雨が上がったらすぐに街へ出掛け、そうさ、本格的な夏が来る前に宮沢賢治の本を買い漁って、うん、もしかしたらこれが最後の夏かも知れない、どこかの木陰に潜り込んで、数十年振りに宮沢賢治の作品を読み耽り、この夏をたっぷりとふくよかなものにしてやろうと思っているんだ。

 

                                                                                      2021. 7. 9.