通信22-34 銀河鉄道の父という本を読む

 二月とは思えないほどの暖かい朝だが、いささか季節を先取りしたような、うん、まるで菜種梅雨のような雨が降っている。ベッドの上で体を起こすと、あれ、弥次郎兵衛から人間に戻っているぞ。すっかり眩暈がなくなっている。おお、久々の爽快な朝だ。

 

 そういえばあまり憶えてはいないのだが、何やら柔らかい夢を見ていた。これも回復の故だろうか。昨日も一昨日も酷い夢だった。特に昨日の夢、まだ若い私は何やら理不尽な要求を突き付けてくる某大学の作曲家の教授の髪の毛をぐいっと掴んで、思い切り後ろに引き倒すという内容だった。おいおい、一体この私は幾つになったんだ。まだまだ血の気が盛んなのかよ。

 

 そのままスタジオに行き、ロビーにある利用者が書かれたホワイトボードを眺めると、あれ、よく見えないぞ。随分と視界が霞んでいるじゃないか。一気に目が悪くなってしまったんだろうか。実は、毎朝このホワイトボードを眺めながら自分の視力を確かめているんだ。

 

 すっかり憂鬱な気持ちで練習を終え、部屋に帰り着き、何となく机の上の本を手に取ると、あれ?これまでになかったほど文字がよく見えるじゃないか。一体どういう事だ?遠視が近視になったって事?ともあれ何やら浮かれて本を読んでみる。目が辛くて放りっぱなしにしている本が何冊もあるんだ。

 

 早速、宮沢賢治の伝記小説を読んでみた。いや、正確には宮沢賢治の父親を主人公にした小説だ。宮沢賢治に関しては、私はただのミーハーのファンなんだ。賢治に関するものならほとんど何を読んでも楽しい。空腹を満たそうとしている犬のようにがつがつと読んだ。

 

 賢治が最愛の妹、トシを失う場面。あの「無声慟哭」の中の「永訣の朝」にうたわれている場面。賢治の父がトシの遺言を書き取ろうと、息も絶え絶えのトシに最後の言葉を即す。そこに猛烈に興奮し割って入る賢治、「こんどうまれてくるときは・・・」という、呟きのようなトシの声は、賢治の叫ぶような読経の声にかき消されてしまう。言葉をとぎらせたまま絶命するトシ。

 

 だがその直後に書かれた賢治の詩編でトシの最後の言葉は「こんどうまれてくるときは、こんなに自分の事ばかりで苦しまないようにうまれてくる」となっている。賢治の詩を読んで、賢治がトシの遺言を捏造したと怒り狂う父。

 

 果たしてこのエピソードはどこまで事実に即したものだろうか。物書きの人でなしぶりを怒る父。私がこの部分を読んだ時、真っ先に思い浮かんだのは、最愛の妻、智恵子を自身の作品の中にまるで情景のように押し込んでしまい、後にその事で自身を「化け物」と詰った高村光太郎の事だ。そういえば智恵子の臨終を描いた高村の詩、「レモン哀歌」はあまりにこの「永訣の朝」に似てはいまいか。

 

 ともあれ何の資料もない私には事の真実は知りようもないが、せめてこの小説の作者はその点、何らかの形で示唆するような文章をどこかに書いてはくれないだろうか。不慣れなインターネット検索とやらを駆使してみたが、今のところ何の手掛かりも見つけてはいない。

 

                                                                                                         2020. 2. 14.