通信26-16 よだかは、実にみにくい鳥です 

 ふとネットニュースの週間天気予報に目が留まり、そいつを開いてみた。雨を表す傘のマーク、そのマークの横に稲妻を表しているのだろう、ピカチュウの尻尾みたいな黄色い斜めの太線が書き足してある。雷雨って訳だね。そんな日が四日ほど続き、五日目には、ああ、稲妻と太陽のマークが同時に書いているじゃないか。空中を雷が駆け巡る数日を経て、とうとう梅雨が明ける、あの、一瞬にして世界が変わるような情景を思い浮かべ陶然とする。うん、もう一息、もう少し頑張ればとうとう夏が来るんだ。

 

 そう言えば数日前、パソコンの画面にずらりと並んだニュースの中に、ふと気になる見出しを見つけた。不気味な鳥が突然目の前に出現し、その口を開けた姿はまさにトラウマにならんばかりに衝撃的なものだったというようなニュース。これは、まさか・・・、恐る恐る開いてみると、ほうら、やっぱりヨダカじゃないか。写真を見てみると、おお、凄い、ぱっくりと開いた口が何とも恐ろしい。その時私の頭にぱっと浮かんだ言葉、「まあ、あの口の大きいこと、きっと、かえるの親類か何かなんだよ」。宮沢賢治の佳作「よだかの星」の中で、他の鳥たちがよだかの姿を見て、これ見よがしに吐いた悪口の一つだ。

 

 それにしても今回の写真に見るヨダカ、それは南米に生息するタチヨダカという種類のものだ。ううううん、これは凄いや。日本のよだか、いくらなんでもこんなに迫力はないぜ。それにしても数十年も前に読んだ切りの小説の台詞がすらりと出て来るとは、数えきれないほど繰り返し読んだ話とはいえ、やはり強く心に刻み付けられていたんだろうね。そう言う訳で早速、近所の古本屋に出掛け、どこの本屋の棚にも一冊数百円で並べてある文庫版の宮沢賢治童話集の中の一冊を買ってきた。

 

 改めて読み直してみると、やはり凄いもんだね、この宮沢って人は。いったい何なんだろうね。この不貞腐れて毎日を送っているひねくれ爺の私が、たちまち賢治先生にお話をせがむ幼稚園児に早変わりしてしまうんだ。童話作家として有名な宮沢賢治、同時に詩人でもある。吉本隆明によってとことん深化された思想詩、もしかしたら日本の思想詩の原点は宮沢にあるんじゃないだろうか。宮沢の思想は私にはどうしても上等なものとは思えない、受け入れがたい要素が多くあるんだが、それでもその詩の存在感にはいつも打ちのめされてしまっていた。

 

 ある詩人の手記によると、旧制中学に通いながら同人雑誌に投稿を続けていた彼の家に、いきなり同人仲間でありながら、一面識もない宮沢が訪ねてきたそうだ。宮沢はとまどう中学生詩人を駅前の西洋料理店へと連れ出し、そこで料理を食べながら天文、地質に始まり様々な話を流れるままに猛烈な勢いで話し出したそうだ。時には自作の劇を演じ、自ら作った劇中歌を高らかに歌い、最後は呆然とする中学生詩人の目の前で、いきなり革袋のなかからざらざらと銀貨をテーブルの上に広げ、「これだけあれば足りるでしょう」という言葉を残し消えて行ったという。うん、やっぱり凄いね。何だかこのエピソードを思わせるような迫力でもって宮沢の詩や童話は迫ってくるんだよね。

 

 さあ、何年振りだろうか。かつてガキだった私は深々と海に潜るように宮沢賢治の世界に溺れた事があった。あれから数十年、やはり一旦本を開けばまた再び私はその世界の中に吸い込まれてしまうのだろうか。うん、老い先も短い事だ、よし、今年の夏はまた宮沢賢治の世界に深く入り込んでみる事にしよう。

 

                                                                                                               2021. 7. 7.