通信26-15 引っ越しの夢

 滴るような鉛色の大気に包まれた日々が再び始まった。世間では梅雨の戻りと言っているらしい。そうさ、まだまだ今年の梅雨は終わった訳じゃあなかった。うん、良いね、何だかほっとするね。いやいや、別に梅雨が好きってな訳じゃあない。でもさ梅雨の終わり、地表近くまで垂れ下がった、ずしりとした重さを感じさせる黒雲が、サーチライトのように明滅を繰り返し、空の至る所に雷が轟き渡る、そんな震えるような数日を体験しない事には夏の到来を喜べないんだ。その黒雲を押し割るように、そこから夏の光が滔々と溢れ出す・・・。私は今、三階の角部屋に住んでいるんだが、その事を一番素直に喜べる瞬間。それは部屋中の窓を全開にして、鳴り響く雷を、目の奥にまで突き刺さってくるような雷光を楽しむ時さ。

 

 何だかここ数年、足の裏に突然血が滲んだり、ちくちくという痛みを感じたりする。昨日もそうだった。足の裏の指の付け根に軽い痛みを感じ、思わず手を伸ばしてみると、あれ?指先にきらりと光る物が。そうか、そうだったのか。それはガラスの欠片だった。うん、数日前、ガラスのコップを割ってしまったんだ。あたり一面に飛び散った欠片、その中の一つを踏みつけたって訳だね。まあ、パルチザンみたいなものさ。コップという形の中で幸せに安住していたやつらが、いきなりその安住の地を壊された腹いせに、部屋の隅に潜んで、虎視眈々、秘かに復讐の時を待つ。

 

 もちろん割れたコップの破片をそのままにしていたって訳じゃない。一応、普段歩くところに落ちている破片は、部屋の中でも滅多に足を踏み入れない地域にきちんと押しやった。でも視覚障害者の年寄りがする事。多分見落とした破片があったんだろうね。

 

 そういえばここ数年、毎年幾つもの食器を割ってしまう。熊本で地震があった時など、随分とうろたえていたのだろう、皿を洗う手に思いの外力が入りすぎ、震える手の中で皿をへし割ってしまった。割れた皿の破片が手首に刺さり、まるでためらい傷のような跡がしばらく残っていた。それにしても湯呑や茶碗も幾つも割った。その度に欠片を、例えば食器棚の陰、冷蔵庫の下など、目に見えないところに押し込むんだが、その時に押し込み損ねた欠片が私の足の裏を傷つけ続けていたのだろうね。うん、ともかくこれで私の部屋に伝わるかまいたち伝説の正体は明らかになったんだ。

 

 そんな訳でちょいと丁寧に部屋の隅を掃除してみた。ああ、見えないところに溜まったごみが凄い事になっているね。埃が油で固まって、うん、もうこれは埃をは呼べないな、さらに埃から進化した何かだ。何か名称はあるのだろうか?なければ自分で考えださなければならないのか?ともかく指折り数えて、あれ、指が足りないぞ、足の指までお借りして、うん、この部屋に棲みついてもう十二年にもなるのか。こんなに一カ所に住み続けたのは初めてだね。いつもまとまった金が入ったら、引っ越しを繰り返し続けた。ろくに物も考えず、縁もゆかりもない土地へ、風に運ばれる種子のように引っ越したんだ。何だかさ、一カ所に長く住み続けると自分が腐ってゆく気がするんだよね。多分今の私は、冷蔵庫の奥で、すっかり忘れ去られたまま個体なのか、液体なのかの区別もつかないような不気味な物体として存在しているんじゃあないだろうか。

 

 そう思うと突然引っ越したくてたまらない衝動が込み上げてくる。そういえば最近、引っ越しの夢をあまりにたびたび見るもんなあ。まあ、しょうがないか。うん、次に引っ越す場所、それは多分三途の川の向こう側さ。

 

                                                                                                               2021. 7. 4.