通信22-24 風に運ばれる綿毛のように

 階下の住人が引っ越していった。確か引っ越してきてまだ一年目ではなかっただろうか。それぐらいの期間を過ごしただけならさほど荷物もないのだろう、引っ越し屋のあんちゃんと、母親らしき女性があっという間に荷物を片付けてしまった。

 

 これから暫くの間、街中をうろつくたびに引っ越しの風景を見掛ける事になる。うん、そんな季節なんだが、その風景に出くわすたびに私の胸はざわざわと騒めくんだ。そうさ、私自身は随分と、この引っ越しという素晴らしい行為から遠ざかっている。今住んでいるアパートに潜り込んだのが二千八年の五月、ああ、いくら何でも長すぎやしないかい。ひとところにいつまでも居座り続けると、ほうら、尻に怪しげな根っ子が生えてくるぜ。

 

 フェリーニの名作「道」の中でも、薄倖のヒロイン、ジェルソミーナに向かって若い僧女が「私たちだって数年おきに僧院を変わるの。ひとところに長くいると土地に愛着が湧いて、神様への愛を忘れるから」などと告白していたじゃあないか。この私?うん、もちろん神様などという有難いものへの愛など持ち合わせてはいないが、それでもひとところに居つくと何かしら身動きが取れなくなり、じわじわと内側から腐ってゆくような気持ちになるんだ。そういうどこまでも落ち着かない性格だって訳さ。

 

 かの葛飾北斎先生は生前に九十八回の引っ越しを繰り返したというが、大八車一つで自由に住まいを変える事ができた、と言ってもほとんどが夜逃げらしいから何らかのリスクはあったのだろうが、江戸という時代が羨ましい。そういえば明治生まれの文士で引っ越し好きな某は引っ越し先の新居でレコードを一枚聴いたきり、また他所へ引っ越して行ったという話を読んだ事があるが、果たしてその文士、内田百閒?政宗白鳥?堀辰雄?駄目だ、思い出せないや。

 

 久々に知人に電話してみた。その知人、十年以上も前の事、体を悪くした私に一年ほど療養所としての住居を快く提供してくれた有難いやつさ。一月ほど部屋を貸して貰えないかなと軽く打診してみたんだ。うん、今年の秋に書き上げる予定のチェロ協奏曲、そいつをさ、昔みたいにさ、毎日誰とも会わずにさ、ひたすら山道を歩き回りながらさ、すべてを忘れて打ち込んでみたくてさ。若い頃はいつもそうしていた。青藍山の頂上近くに借りた仕事部屋に一月ほど籠り、山の中をぐるぐると歩き回り、自分自身がすっかり山と同化してしまった頃、ぽろりと果実が落ちるように新曲が出来上がった。私のように才能に恵まれない人間はそうでもしないと書けないんだ。

 

 いいなあ、秋に一月ほど山に籠り、新曲を書き上げた後はそのままここに戻らず、風に運ばれる綿毛のようにどこか知らない街に移るってのもいいんじゃないかねえ。

 

                                                                                                              2019. 1. 19.