通信21-14 久々に言葉が戻ってくる

 よぜみ・・・?夢か現かひんやりとした冷気を含んだ宵闇の中で、まどろむ頭の中にふと湧いて出たような言葉を、まるで飴玉を口の中で転がすように反芻してみる。夜蝉、確かそんな言葉が俳句の季語にあったような気がするが、果たして夜に鳴く蝉をどのように風流の枠に押し込めるのだろうか、いや、そもそも蝉が夜に鳴く事などあるのだろうかと思案する。

 

 そんな言葉がふと頭の中に浮かび上がってきたのは、光に誘われて飛んできたのだろうか、どこかの部屋のベランダで姦しく鳴く蝉の声に、まだ日があるうちに落ち込んでしまった転寝を遮られたからだろう。開け放した窓から吹き入ってくる心地よい風に、眠りを誘われたのは、すっかり日が傾きかけた夕方だった。それからどれぐらい眠りの間を彷徨ったのだろうか、ようやく目を覚ました私は深い闇の中にいた。明るいうちに転寝に入り、目が覚めると闇の中にいる不安。うん、そいつが子供の頃に体験する様々な不安の中でも最も陥りやすい一つだ。

 

 ともあれこうやって一つずつ言葉が自分に馴染んでくる、そうさ、やっと作曲の仕事を一つ終えたんだ。十日間ほどすっかり言葉から遠ざかっていた。作曲ってものに没頭すると、まったく言葉が出なくなってしまう。まるで「不自由な人」みたいにさ。すっかり無口な人として、作曲家の私はこの十日間ほどを過ごしたんだ。

 

 現役の頃は、つまり作曲ってものにどっぷりと首まで漬かり込んでいた頃は、大きな作品に取り掛かるとその間、一月でも二月でも山奥の仕事場に籠って過ごした。山に入る前に、ふもとのアーケードで食料品や珈琲、文房具、葉書の束などを買い揃え、世間との一切の交わりを絶つ、うん、まさにそんな気持ちを心地よい決意のように感じながら山に入ったんだ。携帯電話の一つも持たず、火急の用があれば葉書で済ませた。

 

 山に入ってすぐに清書が始まるって訳じゃあない。本格的に仕事に没頭するまでの数日間、何とも言えない寂しさや不安と戯れるように過ごす。その間、そういう気持ちを紛らわすためにも葉書をよく使った。都会の部屋に女を残している時には、その女に向けて毎日葉書を書いた。女は、毎日届く葉書の文章が次第に乱れてくるにつれ、作曲の方に頭が取り込まれているんだろうなと、言葉をどんどん失ってゆく私の姿を思い浮かべながら、その葉書を繰り返し読んでいたと言った。

 

 時折、清書に入る直前になって珈琲豆が切れてしまう事があった。そんな時は慌てて片道一時間以上かかる坂道を降りて、アーケードの端にあった珈琲屋に駆け込んだ。ほとんど言葉が出ない私を、東南アジアから出稼ぎに来ている若者とでも勘違いしたのか、優しそうな店員はゆっくりと言葉を噛み砕くようにあれこれ説明してくれた。

 

 うん、これは幸せな記憶だ。ああ、でももう一度、この幸せな記憶のような時を過ごしたいと思っている。ランボーの詩句を借りるなら「さまざまな気遣いのせいで僕は自分の青春をすっかり駄目にした/もう一度心のそこから打ち込める、そんな時が再びやって来る事はないのだろうか」。うん、私にとって言葉ってのはさ、気遣いそのものだね。でも、本当は自分がさ、言葉ってものにずたずたに切り裂かれながら作曲ってものに取り組まなきゃあならない事を知っているんだ。それでさ、さあ、これからどんな変てこな文章を書きまくってやろうかなどと、悪事の計画でも練るかのように舌なめずりしながら考えているんだ。

 

                                                                                                             2019. 7. 25.