通信20-38 オーケストラという夢の音楽装置

  東京を離れる一年ほど前からどういう訳だか、うん、本当にどういう訳なんだろうね、私は指揮の勉強を初めた。指揮、あのオーケストラだとか合唱団の前で、手足をばたばた、時には口を金魚みたいにぱくぱくと動かしながらやる、いささか滑稽なあれさ。

 

 

 そうだね、ともかくやりたかった事は作曲だ。でもいくら一人で譜面を書きまくったからといって、それだけじゃ何にもならない、誰かに演奏してもらわなきゃあねってな事は、いくら阿保面下げたガキの私でも分かっていた。作曲なんて、だれも演奏してくれなければ、ただ紙屑を日々生み出し続けている事と一緒なんだ。いや、誰も演奏してくれないのならば、いっそ自分自身でで演奏できるようになればいいんだと、単純にそう思ったのさ。

 

 

 でも、この私は、まったくもって指揮者ってものに向いてなかった。ともかく人前にでるのが苦手なんだ。人の目、そいつがいつも恐ろしかった。つげ義春の「ねじ式」という漫画の中に、主人公の少年が、大きな目が描かれた眼科の看板ばかりが幾つも並ぶ街の中を走り抜ける場面があるが、うん、私もそんな感じで人目を恐れながら毎日を過ごしていたんだ。

 

 

 そんな人間が指揮台の上に立って、偉そうに棒っ切れを振り回そうと思うなんて、まったくもってどうかしているぜ。指揮台から見渡すオーケストラ、こちらをじっと見つめる楽員の視線。それではこれから不肖私めが指揮をいたしますので、楽員の皆さまはしばらく向こうを向いていていただけませんでしょうか、うん、まったくそんな情けない気分を胸に抱いたまま指揮台の上で多くの時間を過ごしたんだ。

 

 

 指揮の勉強を始めるにあたっては、私はおおいに運が良かった。それは認める。たまたま来日中のオーストリア人指揮者の講習会に参加して、ちょいと筋が良いと褒められ、その指揮者が指揮をするオーケストラのリハーサルを見学する事を許されたんだ。オーケストラの後ろで練習を覗いている得体の知れないガキを、楽員たちはその指揮者の内弟子だと勘違いして気軽に話しかけてくれた。うん、まだまだ人と人との付き合い方がざっくばらんな良い時代だったね。年長の楽員から教わったさまざまな現場をこなすこつは、まさに財産と呼びたいぐらいさ。それから厚顔な私はたびたび、オーケストラのリハーサルを覗いては、そこで仕事に取り組むさまざまな指揮者のやり方を盗もうとした。うん、指揮ってのはともかく現場に触れないと話にならないんだ。

 

 

 たまたまその頃知り合った、若いヴァイオリン奏者から、今度新しいオーケストラを作るから指揮をしてみないかと声を掛けられた。音大を卒業したものの、ろくに仕事もありつけないという連中が集まって、何か事を起こそうって事らしい。面白そうじゃないかと参加した私は、二十数人ぐらいの楽員で構成された小さなオーケストラを振らせてもらった。うん、指揮をする事を「振る」と言うんだ。

 

 

 まだこの国にはプロフェッショナルなオーケストラは十個しか存在しなかった時代だ。ぎらぎらと野心に燃えたリーダー格のメンバーが、これから自分らもプロを目指すと宣言し、意見を同じくしない数人が抜け、私もそのオーケストラを離れる事にした。ベートーヴェン交響曲に取り組む事には大いに魅力を感じたが、商売としてオーケストラをやっていくなんて御免だった。オーケストラ、その馬鹿でかい音楽装置を運営していくために払う犠牲の大きさを考えると、ああ、くらくらと眩暈がするじゃあないか。それに何より、うん、集団ってのが嫌だったんだ。演奏の度に即興的に集まって、その都度解散を繰り返す、本当はそんなオーケストラを作りたかった。人間ってのは徒党を組めば必ず腐る、そう信じていたからさ。

 

 

 福岡に移って数年、ぼちぼちとオーケストラ活動を始めた。どこからともなく、楽器を抱えた若い連中が集まってきたんだ。とても不安定な活動。演奏会のたびに参加者を募り、不安定ではあるが、いつも新鮮な気持ちで音楽に取り組めたと思っている。ともかく楽しかった。そのオーケストラも十年ほど前に消滅した。うん、やはり活動を繰り返してゆくと、参加者が偏ってくるもんさ。そうすると残念ながら、どこからともなく腐臭が漂ってくるんだ。ぷんぷんとね。それでも集団ってものが何なのか、人が集まるという事はどういう事なのか、それについて真剣に考える機会を得ただけでも十分だと思っている。

 

 

                                                                                                       2019. 6. 15.