通信20-37 昔、渇水があった

 降水確率百パーセントの予想、窓の外には垂れ下がるような雲が。ああ、でも期待していたほどじゃなかった。全然足りない。ほんのお湿りってやつさ。一体いつになったら梅雨入りするんだろうね。

 

 

 福岡の市民は、ある程度年齢のいった者なら、水に対してトラウマがあるんだ。福岡大渇水と呼ばれるやつ。給水制限が二百日以上も続いたあの渇水。私は当時まだ福岡には住んでいなかった。東京都民だったが、時折仕事や遊びでこの街を訪れていた。その年は確か梅雨ってもんが無かったんじゃなかったっけ。夏の暑い日、新幹線を降りた私が博多駅の喫茶店に入ると、ウエイトレスが運んできてくれたお冷、それは紙コップに一二センチほど、申し訳程度の量だった。紙コップ?うん、コップを洗うための水を節約していたのさ。

 

 

 トイレが使えなかった。何しろ流せないんだ。どの便器もてんこ盛り、大盛、特盛、大特盛だ。旅行者だった私は、うへえ、なんて街だよ、などと呟きながらもあらゆる体位を駆使して何とか用便を足した。ああ、まさにバベルの塔のような茶褐色の物体が、着実に天空に向かって背を伸ばし続けていた。

 

 

 当時仲が良かった女の子が福岡に住んでいたんだが、私は彼女に向かって、こんなに凄い便所は初めて見たぞと、興奮して捲し立てた。すると彼女は、「何言ってるのよ、女子トイレなんてもっと凄いんだから、なにしろねえ・・・」と口走り、それから自分の発言をはしたないとでも思ったのだろう、ふと口を噤んだ。われわれの間を沈黙が流れる。おいおい、「なにしろ」の続きは何だよ、早く言ってくれよ。私の想像の中で、どんどん女子トイレの悲惨な状況が勝手に膨らんでゆく。私はそんな事、想像したくないんだよ。

 

 

 給水制限は次の年の二月だか三月だかまで続いたそうだが、こんな街住みたくないなあとその時、はっきりと思った。まさかその数年後に自分がそこに引っ越してくるなどとは思ってもみなかったんだ。

 

 

 うん、その頃、東京での私は随分と追い詰められていた。Sのグループとの連中とも上手くいってなかったんだ。結局、Sのグループは世間知らずのエリートの寄せ集めだったって訳さ。エリート、ああ、こいつが本当に苦手なんだ。「俺はお前らとは違うんだ」と、人をさんざん見下し続けるやつら。いや、正確に言うと、「俺は」じゃないね。「俺たちはお前らとは違うんだ」、うん、これだね。「俺はお前らとは違う」と呟きながら、自分の内面と真摯に向き合い続け、凄まじい作品を書くやつらがいる。私が苦手とするやつらは決してそうじゃない。「俺たちは」、うん、どこでもいいさ、集団に属したり、偉い人間に媚を売りまくり、お仲間に加えていただくや、自信満々でたちまち周囲を見下すやつら、そいつらとだけは絶対に付き合いたくなかったんだ。

 

 

 ちょうどその頃、うん、何と言えばいいんだろうかね、最近の言葉で言うなら「反社会的な連中」とでもなるんだろうか、ともかくそんなやつらとちょいとした絡みがあったんだ。具体的に何があったかは書かない。酔っ払って飲み屋でその時の事を話してしまう事は時折あるが、こんな誰が読んでいるのか分からないようなインターネット上に曝すような事はしない。思い出したくもないような恥ずかしい事さ。よく、昔の悪行や、古傷をSNSに書き込む人がいるが、私にはその手の趣味はない。

 

 

 ともかくいろんな仕事や人間関係を放り投げたまま、私は都落ちしたんだ。その時の事を考えると、今でも地面に頭を擦り付けて謝りたくなる。後で人伝に聞いた事だが、Sはすべてを放り投げた私の事を、絶対に許さないと息巻いていたらしい。

 

 

 そうして逃げてきた福岡はその年、深刻な冷夏に襲われた。雨季はいつまでも、うん、梅雨が終わっても雨は降り続いたんだ。街中が笑いさんざめいているような緑をその夏、目にする事はなかった。雨に煙る街はくすんだ色をしていて、八百屋からは野菜が消えた。キャベツが一玉二千円を超え、八百屋の店の奥でふんぞり返っているその姿を見るたびに、「お前はメロンかよ」と突っ込みたくなった。福岡の焼き鳥屋では、焼き鳥を頼むと付け合わせに皿一杯のキャベツのざく切りが出てくるんだが、その年、ほとんどの焼き鳥屋ではキャベツの代わりにキュウリが使われた。われわれは「ぽくぽく」と淋しい音を鳴らしながらキュウリを齧り、そいつを焼酎で喉に流し込んだんだ。うん、もちろんその時も私は福岡の事を、やっぱり変な街だねえと思った。

 

 

                                                                                                             2019. 6. 14.