通信20-36 喋るように書いているようにみせかけたい

 頭からほかほかと湯気が立ち昇っている。うん、作曲疲れってやつさ。慣れないパソコンを使ってあれれこれれと頭を捻り、それでも昨日から二日かけて、ようやくピアノの小品を三つ拵えた。

 

 ああ、目がしょぼしょぼ、手もしょぼしょぼ、椅子の上に折りたたんだ足はすっかり萎えてしまっている。珈琲でも淹れようかと椅子から降りると、たちまちよろめき、まるで歌舞伎役者みたい、とっとっととととたたらを踏んで、冷蔵庫にごっつううん、せめてそれぐらいは丁寧にと、ゆっくり淹れた濃い珈琲を片手に机に戻り、そうして、どれ、気分転換に文章でも書こうかねえとワープロのソフトを開く、うん、これこそがあるべき作曲家の姿じゃあないか。

 

 さて、今日はどんな下らない事を書いてやろうかなと、文章を書く楽しみがじわりと腹の底から湧き上がってくる。何を書いても良いってのは、うん、やっぱりいいもんだね。このブログに関しては、二つのルールのみを自分に課している。擬似口語体(などという言葉があるのかどうかは知らないよ)で書く事、それからともかく何ら為になるような事、それだけは書かないようにしている。「こんな馬鹿でも人様の前に文章を曝しても良いという事が分かって為になりました、ははあああ」などと言われてしまえばお手上げだが、ともかく下らない事が、偏屈爺の口の端から、ほうら、ガマの油みたい、たあらたらたらと漏れ出してくるようなそんなブログを拵えようと思っているんだ。

 

 喋っているかのように書かれた文学作品は数多ある。1200年後半から1300年代初頭にかけて書かれた久我雅忠女の日記はじめ、さまざまなものが存在するが、私はその多くに強い魅力を感じる。そんな中、何より決定的に魅き込まれたのはルイ・フェルディナン・セリーヌの巨大な作品群さ。どこまでもどこまでも無限に続いてゆくのかと思われる語り。毒と諧謔が、貯め込まれた歯糞のようにセリーヌの口からまき散らされてゆく。

 

 そのセリーヌ、「Y教授との対話」という本の中で口語体について、秘密を打ち明けるように、ちょいとその作法に触れている。ああ、やはり文体を獲得するために大いに苦労したんだろうね。もちろん喋りをそのまま文字に起こしたところで決して作品にはならない。いかにも喋っているかのように相手に読ませる、それには随分と工夫が必要って訳さ。

 

 おっと、話がややこしくなりかけてきたぞ。うん、そんな事はどうでもいいんだ。今は私の愛弟子Мちゃんに、二十歳頃の私がいかにだらしない暮らしをしていたのかって事を伝えなけりゃならないんだ。

 

 そういえばある日、明らかにSが興奮を隠したような顔でやって来た。今度、ある監督がテレビの二時間ドラマを撮るらしいんだけど、是非とも監督自身がそのドラマの音楽も担当したい。といってもオーケストラの譜面は書けないから、その監督が作った旋律を、オーケストラで演奏できるように編曲して欲しいと、そんな依頼を貰ってきたと言うんだ。二時間ドラマ?うん、やった事はないけど、多分いけるだろう。私のその返事を聞くと、Sはすぐに部屋を飛び出して、表の公衆電話へと駆けていった。

 

 監督が書いた譜面はひどい代物だった。これをテレビで流すってのかい?ううううん、そいつはちょいと無理があるね。私はその編曲に必死で取り組んだ。何とか監督のご機嫌を損ねないように、なるべく原型を残したまま、うん、厚化粧を施すのさ。付けまつ毛にアイシャドウをたっぷり、「唇が熱く君を語り」出すようなルージュに、金粉でも振りかけてみようか。いやいや、いっその事おてもやんみたいに真っ赤な頬紅はどうだい?もはや元の顔が分からなくなるぐらいにさ。いやいや、そいつは駄目だ。たちまち監督は臍を曲げてしまうだろう。

 

 滝のような冷や汗がだらだら、悪戦苦闘する事ほぼ一週間。それでどうなったかというと、うん、不採用、というよりもいつの間にか話そのものが消えてしまったんだ。何故って、理由は単純明快、Sと監督との仲が破綻したんだ。だからそういう仕事の取り方をしてては駄目なんだってば。監督の方はさすがにプロさ。誰もがやる事だが、新人を使う場合には、同時にまた別の新人にもこっそり同じ依頼をしておくんだ。保険に入っていたって訳だね。「ごめんね、ごめんね」とくどいぐらいに何度も謝るSと二人で、高円寺のガード下の焼き鳥屋で朝まで飲み明かした。うん、よくある思い出の一つさ。

 

 

                                                                                         2019. 6. 12.