通信24-35 隣室には歌手志望の少女が住んでいる

 隣の部屋から、途切れ途切れではあるが、ずっと夜通し話し声が聴こえていた。何を話しているのかまではわからない。ぼそぼそと低い声で、もし夜が液体ならそこに小さなさざ波が立つみたいに若い女の子が二人、話をしている。時折楽しそうな笑い声が聴こえ、そのたびに何故か私は擽れらたような安堵を感じる。

 

 すべては私の勝手な推測だが、隣に住んでいる若い女の子は歌手を目指しながら、新聞配達をしているのではないだろうか。私が明け方まで仕事をしていると、必ず朝に、いや、まだ朝というにはほど遠い三時、四時、まだ外は真っ暗なその時間に出掛け、私が布団にもぐり込む七時頃に帰ってくる。うん、これは多分新聞配達だろうね。いや、牛乳配達?豆腐屋のバイト?納豆売り?いやいや、そんな時代遅れなやつはもういないよ。

 

 歌手志望だと思うのは、時折聴こえてくる歌声、うん、それがなかなかしっかりしているからさ。それに歌う前にかならずキーボードのようなものを使って音を確認しているんだ。もちろん発声練習もする。その手の事には詳しくないんだが、いつもフラッターを使った分散和音から練習が始まる。うん、フラッターってのは巻き舌を使いながら発音する事だね。多分舌根を柔らかくするだとか、そんなやり方があるんだろうさ。この近所には芸能関係の専門学校がいくつかあるんだが、そこの学生さんではないだろうか。そんなやつが隣にいると作曲の邪魔にならないかって?いや、特に気にならないし、その歌声が聴こえてくると何だか妙に感傷的な気分になるんだ。

 

 そうか、今日は新聞の休刊日なんだ。それで隣の女の子、何やら嬉しくて仲の良いお友達と二人、夜通しお喋りを楽しんだって訳だね。うん、一応、苦学生ってやつになるのかね。ともあれ単調な日々に腐る事なく勉強を続けているのは何だか切ないね。

 

 ああ、それに比べ若い頃の私はというと、一体どういう修業時代を過ごしたんだ?まだ十代の終わり、学校にはとうに見切りとつけ、いやいや、見切りをつけたのはもちろんあちらさん、そう学校の方さ。体良くそこを放り出され、新宿、池袋のあたりをうろうろしているうちにエロ映画の監督と知り合い、思わず息を呑むほどの安いギャラで、十代の少年にはいささか刺激が強すぎるフィルムに音をつける仕事を始めたんだ。

 

 まだホームビデオなんて言う便利なものはなかった。さあて老若男女に関わらず、欲情されたお方々は全員集合ってなもんで、ポルノ専門の映画館、そこそこに繁盛していた。欲情の種を腹の中に抱え込んだ皆さんが、薄暗い館内で欲情をさらに大きく膨らませ、その膨らんだ欲情を爆弾みたいに腹に抱えたまま街中へと散ってゆく。もちろん後は知らないよ。各々の流儀でその欲情を処理なさったのだろうさ。

 

 内容はさほど問われない、ただ、新しい作品が常に要求された。作る側もフル回転で、次々に新作を出し続けなければならない。ともかく数をこなし続けない事には話にならなかった。私は一応、学生の頃のつてで数人の演奏家に頼み、小さなアンサンブルを使う事ができたが、同僚には著作権の切れたレコードを片っ端から使っているやつもいた。

 

 とうとう締め切りについてゆく事ができずに現場を去った私は、ポルノグッズ通販の会社に潜り込んだ。そんなにポルノ関係が好きなのかって?冗談じゃない、その手のものには嫌悪感しかなかった。ただ映画の現場に出入りするポルノグッズの業者、うん、撮影にはそういう小道具が大いに必要なのさ、その会社の社長に拾われたんだ。それが私の修業時代だ。

 

 結局、地道な事ができないようなあんぽんたんな性格なのさ、この私は。だからって訳でもないが、うん、隣の女の子みたいにきちんと単調な日々に耐えている人間を見ると、ああ、何だか切なくて堪らなくなるんだ。時折、アパートの入り口や階段ですれ違う。垢抜けない、いかにも田舎から出て参りましたというような、しかもいささかオタク臭が漂う女の子なんだ。でも私は彼女とすれ違うたびに、「ともかく上手くやれよ」とついつい心の中で祈ってしまう。

 

                                                                                                         2020. 11. 9.