通信20-39 もう一度視力が戻ってきたら

 人は老化を病気と誤解するらしい。まあ、しょうがないよね。何てったって老化、それはその人にとって初めての体験だからね。私だってもちろんそうさ。今、初心者の老人として、初々しく日々を過ごしているんだ。うん、体は日々衰える。いてててて・・・という言葉の発音だけが確実に上達しているって訳だ。

 

 演奏の衰え、まさにてきめんってやつだね。加速度的に楽器が下手になってゆく。無意識にできていた事が、突然できなくなるんだ。そこで初めて無意識を意識するって訳さ。指、そいつは何となく動かなくなっているような気がするんだが、それについても注意深く観察する必要があるね。楽器の演奏において指ってのは鍵だとか弦だとかを抑えたり離したりする役割のものだが、その二つの動作が同時に衰える訳じゃあない。抑える方はさほど変わらない。それに比べ離す行為、そいつがたちまちぎこちなくなってゆくんだ。つまり脱力ができなくなる、そこから老化が始まるって訳さ。私の実父は神経系統をやられる病気でくたばったんだが、一つの運動から元のニュートラルな体の状態に戻す事が日々できなくなっていった。私はそんな実父を見つめながら、まるで老化を煮凝らせたような病気じゃないかと悲しくなった。うん、親の老化ほど悲しいものはないね。

 

 ともかく今の私が、演奏する上で毎日取り組んでいる事、それは脱力さ。早い楽句に取り組むと、いつの間にか時間に取り残されたように楽器を握りしめている自分に気づく。ともあれ老化は老化だ。私は誤解していた。まるでその老化を病気のように思い、治療しなければなどと思い込んでいたんだ。老化した体を補助する器具を使う事を潔しとしなかった。うん、何を言っているかと言うと、最近ルーペを使い出したのさ。眼鏡型のやつ。私は元々眼鏡を掛けているから、眼鏡の上にもう一個眼鏡を掛けるってな風情になるんだ。何だか変だね。眼鏡に関して強欲な男ってな感じかね。まあいいさ。それで物が見えるのなら、もう一度鉛筆を舐めなめ譜面が書けるのなら。望遠型眼鏡だろうが、一眼レフ眼鏡だろうが何だって掛けてやるさ。

 

 最後に手書きの譜面を作ったのは一昨年だ。足の奇麗なお姉さんに、どうしてもまだまだ作曲ができる事を見せたくて、棟方志功みたい、五線紙すれすれまで顔を近づけて、まるで紙の匂いでも嗅いでいるみたいにさ、ぐりぐりと音符を並べ続けたんだ。その数日前、私はおねえさんとある街を二人でぶらぶらと歩き回り、その挙句意識を無くしてしまったんだ。はっと気づいたら自分が住んでいる街の駅に立っていた。無事に帰りついたところをみると、ばたりと倒れたりはしなかったんだろうが、ともかく意識はなかった。その夜、どうやっておねえさんと別れたのかも記憶にない。いっその事、ばたりと倒れてしまった方がまだましだったのかもしれない。いや、私の代わりに、われわれが飲んでいる背後でどこかの爺さんがばたりと倒れていた。どういう訳だか、その爺さんの姿を見た私は、思い切り縮み上がってしまったんだ。

 

 ともかく私は謝りの手紙を書き続けたんだが、決して病気で倒れた訳ではないという事を過剰にアピールするために、送りつけたのは軽薄な内容の手紙ばかりだった。本当は心を込めて、きちんと謝罪するべきだったのに。そうしなければならないような人だったのに。実際には多分、病気で意識が吹っ飛んだだけだと思うが、おねえさんだって病人を責める事は多分しなかっただろうと思う。うん、私は大いに見栄を張ってたって訳さ。まだまだ使い物になる人間だという事をアピールしようとしたんだ。薔薇色の未来を持った健康な男だと、そう見てもらいたかったんだ。ああ、吹き出すぐらいに馬鹿だねえ。

 

 ところで人類で初めて眼鏡を掛けた人ってどんな感じだったんだろう。通り掛かった人々が「あの、鼻の上に乗っかっている輪っか、ありゃ、一体なんだ?」ってな事にならなかったんだろうか。面白がって子供たちが後ろから行列を作ってついてきたりしなかったんだろうか。・・・うん、何か陽気な事を書こうと思ったんだが駄目だね。足の奇麗なおねえさんの事を思い出すと、ココロってやつが何だかくしゃくしゃになってしまうんだよね。

 

                                                                                                      2019. 6. 16.