通信20-40 ちょっとだけヤンキー映画を観た

 最近はいろいろな物を、インターネットを通じて買う事を覚えたんだが、あれ?いつの間にかよく分からない何とやらの会員になっているじゃないか。ろくに見えない目と、ろくに考えない頭と、ろくに動かない手、そんなものに引き摺られて生きていると、ついろくでもない会員とやらになってしまうって訳さ。

 

 せっかく会員になったんだから、特典を使え、まずは無料のヴィデオでも見てみないかなどというメールが届いた。そいつはご親切のどうもってんでそのサイトを開いてみると、うへえ、ろくな作品がないじゃないか。

 

 それにしても世の中にあふれている、この無料で観る事ができる映画、何故こうもやくざ物、ヤンキー物、金融物が多いんだ。愚連隊のあんちゃんたちが何をどうしようと、別に知ったこっちゃないんだが。

 

 そういえば昔、作曲家の佐藤勝氏が、自分は一たび映画館に入ると必ず最後まで観通すと決めていたそうだが、たまたま観る羽目になったヤンキー映画だけはどうしても耐えられずに、途中で映画館を後にしたと語っておられた。うん?今、目の前のリストに並んでいるヤンキー映画、あれ、佐藤氏を呆れされた映画って、確かこれじゃなかっけ?うん、怖いもの見たさに、震える手で画面をクリックしてみる。

 

 おお、確かにこいつは酷い。酷いんだが、そんな事よりもあの佐藤勝氏がこの映画を観ている姿を思い浮かべ、うふふと笑いを噛み殺しながら三十分ほども観た。まあ、結局、私も途中まで観て諦めてしまったんだけどね。

 

 若い頃、住んでいた街から電車で五分のところに古い映画館があったんだ。今はもう無くなってしまった池袋文芸坐。地上と地下に分かれていて、地上は洋画、地下は邦画、それぞれ三本立て、そいつを三百円で観る事ができた。朝から地上で洋画を三本、途中で近くの牛丼屋に行き、そこで腹を満たしてから地下に潜って邦画を三本、結局朝から晩まで映画鑑賞って日がざらにあった。

 

 うん、あんまり良い観方じゃあないね。呆っとしながら観ていると、それがあまり興味のない作品だと、たちまち頭の中で三本が混ざり合ってしまうんだ。あれ?いつの間にか主人公もヒロインも入れ替わっていないかい?そうさ、いつの間にかもう次の映画が始まっているんだ。

 

 まだホームヴィデオなんて物が世の中に存在しない頃の話さ。ぺらぺらの紙に刷られた上映予告表を眺めながら、まるで重大事件を知らされたように、おお、来週ついにフェリーニがくるぞなどと仲間内で騒いでいた事が懐かしい。うん、額を熱くして本当に観たい映画の上映を待つ、それが何より楽しかったんだよね。

 

 若い頃に観たネオリアリズムの映画の影響は、多分一生抜けないだろうね。中でも「無防備都市」を観た時の衝撃は忘れない。それにしてもこの映画、どれぐらいの予算で作っているんだろう。途中でフィルムの色が変わってしまうのは、戦争の焼け跡からフィルムを搔き集めたせいらしい。すべてがローケーションで、そのリアルさに、たびたびドキュメントフィルムを観ているような錯覚に陥った。スタジオでの撮影が一切なかったのは、イタリアが誇る大スタジオ、チネチッタ戦没者の死体置き場になっていたかららしい。

 

 人間をそのまま描くために、一切の無駄なものを削ぎ落とした映画、うん、今はもうそんなものを必要とする人間はほとんどいなくなったんだろうね。無駄な物をたっぷりと楽しむだけのゆとりのある世界にわれわれは住んでいるんだ。それはもちろん有難い事さ。著作権が切れたそれらの映画は今、本屋の片隅に、十本二千円足らずで売られている。

 

 最近、甥っ子が仕事をいろいろと手伝ってくれる。目が悪くなって、うん、ついでに心臓も悪くなってしまい、あらゆる雑用が面倒臭くなってしまった私に代わって、いろんな事をこなしてくれるんだ。その甥っ子が、最近何だか元気がないんだ。元々、対人関係ってやつを上手くこなせないタイプのやつさ。具体的に何があったのかは知らないが、ともかく尻込みしているんだ。いろんな事にさ。多分、背後から乱暴にぶつかってきては、無碍に追い抜いてゆく時間ってやつに戸惑っているのさ。

 

 そんな時は、うん、仕方がないね、焦らず丁寧に生きるしかないぞ。自分ひとりだけのために、丁寧に朝食を作るとかさ。ほら、セリーヌの小説の中にあるじゃないか。人は何かに負けるんじゃない、ただ内側から腐ってゆくんだってシビアな言葉がさ。うん、そんな君にはさ、もうちょっと心にゆとりができたら、ジュンク堂の片隅に転がっている十本1980円の映画を薦めるぜ。

 

 

                           2019. 6. 17.