通信22-10 静かな映像に美しい音を聴く

 最近はアマゾンの会員とやらにいつの間にかなってしまっていて、そのせいでよく無料おすすめ映画とかいうデータが送られてくる。内容もなにも確かめないまま、サムネイルを適当に眺め、特に嫌な気持ちにならなければそのままクリックするというような事を繰り返している。

 

 数日前にたまたま観た映画は、どういう訳だかピアノの調律師が主人公という地味なものだった。地味なものが駄目かというと、もちろんとんでもない。久々に映画というものを存分に楽しんだと。

 

 その映画、ともかく音が切り詰められているんだ。ああ、これほど有難い事はないね。耳を澄ます、音楽家にとって何よりも大切な行為、その行為から人々はますます離れてゆくという世の中だ。世の中にはあまりに無駄な音が溢れ返っているからね。そんな中、何やら磨き込まれた奇麗な石でも手のひらで転がすようにこの静かな映画を楽しんだ。

 

 画面の中で誰かが鳴らした音叉の微かな音、空気をゆらゆらと振動させるそのデリケートなA音がはっきりと聴き取れた時、おお、この映画、なかなかいいんじゃないかと確信した。僅かな現実音ばかりがどこまでも控えめに画面を彩るその映画が進むにつれ、喉が渇くように耳が渇いてゆく。今、現実の街中には音が溢れている。それは喉も乾いていないのに安っぽい人工甘味料がたっぷりと混ぜ込まれた飲み物を喉に流し込まれている状態と何ら変わりはないんだ。

 

 主人公がある家で調律を済ませると、その家の娘がいきなりラベルの「水の戯れ」を弾き出した。それから丁度帰宅したばかりのその娘の姉も嬉しそうに、調律が済んだばかりのピアノに駆け寄り二人で連弾を始める。普段聴き慣れた曲ばかりだが、ああ、私は涙がはらはらと零れた。音のない静謐な空間に音が溢れる。うん、何という清潔さ。音ってものはこんなにも美しいものだったのか、そう感じ入ったのは一体どれぐらいぶりだろうか。真っ白な画用紙に描かれた音がどれぐらい美しいものか、人はそれを忘れている。

 

 昔、作曲をする時、まずは最初に取り組む事、それは自分の中に芥のように溜まり込んだ音を吐き出してしまう事だった。私はそのために青藍山の山頂付近に仕事場を借りていたんだ。ほとんど車の音すら聴こえないその山奥で三日ほど、何もしないでいると、たちまち耳が、いや、体のすべてが音を欲しがり出す。そうして痛いほどの静寂に耳を澄ましていると、まだこの世のどこにも存在していない音が微かに自分の内側から鳴り出してくるのがわかる。さあ、後はそいつを五線紙に書き写すだけさ。

 

 もしかしたらこれから書くチェロの曲が自分の最後の作品になるのかもしれない。それならば、ああ、もう一度山にでも籠ってみようか。うん、あれこれ想像しているうちにじわりと音が湧いてくる。この時期が作曲をするという行為の中で一番楽しい時さ。例えばもうすぐお会いできる未知のチェロ奏者の方は、一体どんな方なのだろうか?果たしてどこの馬の骨とも知れぬ私の作品を受け入れて下さるだろうか?もちろんこれは不安な事さ。でもこの不安は決して不快じゃあない。いや、むしろ自分の中から音を湧き上がらせてくれる不思議な感情なんだ。

 

 そしてこの時期が終われば、ああ、情けない状態、ひたすら身を隠すように原稿用紙に齧りついて、うん、誰にも見せられないね、「鶴の恩返し」という昔ばなしの中で、鶴が決してこの襖を開けてはいけませんとい言い置いて、襖の向こうで機織りに没頭する。ああ、襖の向こうではどんな悲惨な光景が繰り広げられているのであろうか。うん、物を創るってのはそんなもんさ。

 

                                                                                                    2019. 12. 17.