通信21-2 長い旅の記憶 2

 古びたビルの二階、不動産屋の店名を示すプレートが貼られたドアを開くと、「いらっしゃい」という、しわがれた濁声が聴こえた。カウンターの中にいるのは、おお、これこそまさに不動産屋のおやじともいうべき男の顔が見えた。パーマを当てた短髪はすっかり白くなっていて、その代わりと言ってはなんだが、顔はどす黒かった。まるで白黒反転、写真のネガのようだった。

 

 大きな花柄のシャツの胸をはだけ、うん、その胸には金色のペンダントがきらり、薄い色の入った眼鏡のフレームも金色、その武骨な太い指には金色の指輪がずらり、おいおい、まるでどこか知らない部族の祭日の正装みたいじゃないか。その男が立ち上がり、カウンターから出てきた。紫のズボンに、飴色の革靴。うん、今の時代とは違う。近頃の不動産屋の社員、皆髪の毛を七三に分け、ネクタイをキュッと締め、柔らかな物腰で揉み手をしながら近づいて来る。でも昔は違った。昔の不動産屋、そいつらは筋金入りだった。振り回せばたちまち凶器にもなりそうな筋金、うん、そいつは背中に何本も入っているようなやつらが、しっかりと睨みを効かせている、それが当時の不動産屋さ。

 

 もう閉店間際だったんだろう。その男以外に、店内に人影はなかった。「家探しでっか?」「家賃は安い方がええか?」「部屋は奇麗な方がええか?」「交通の便は良い方がええか?」。「はい」という以外の答えを見つけるのに苦労するような、どうでもいい質問が続いた。「ちょっとこっちへ入ってや」。どういう訳か、男は私をカウンターの内側へ招き入れた。そこでおもむろに、所長と書かれた三角のプレートが置かれた机に座る。ああ、間違いないね。この男、多分、ずいぶんと年を取ってから入社した下っ端さ。誰もいない店内で、世間知らずの青二才の客を相手に、不動産屋の幹部を演じようってんだ。

 

 「ほう、この辺りは初めてか?それならいいところを世話せんとあかんなあ。このあたりはややこしい場所が多いんや」。もちろんその言葉は適当な出まかせさ。その証拠に私は、思い切り「ややこしい場所」を紹介されたんだ。閉店間際にふらりと入って来た世間知らずの青二才、うん、これほど売れ残った、どうしようもない物件を押し付けるのに都合のいい相手はないさ。ねぎこそ背負ってはいなかったが、ああ、私はとんだカモになってしまっていたんだ。

 

 「おっと、この物件が残っていたか。うん、これはいい。これなら誰だって嬉しがるやろなあ」。男は独り言を、もちろん私に聴かせるための独り言さ、その独り言を呟くと、返事も待たずに、私を車の後部座席に押し込んだ。ああ、車は夕闇に中へと走り出してゆく。

 

 その時は知らなかった。実はこの地域、ずいぶんと入り込んでいるんだ。いろんな意味でさ。複雑なんだ。人と人が大いに擦れ合いやすいようにできているんだ。一時間ほど前に一目見て気に入った小ざっぱりした街、その街並みはあっという間に消えた。さして大きくもない溝川を越えると。並んでいる家々がたちまち一回りも小さくなった。家と家の間がなかった。家、そいつがまるで悪事の相談でもしているかのように、べったりとくっつき合っているんだ。

 

 ごみごみした住宅街を進んでいくと、やがて一軒家も消え、木造モルタルの二階建てアパートが建ち並ぶ地区に入った。建ち並ぶ?いや、建つという立派な言葉は似合わない。ぐにゃぐにゃのそれらのアパートはお互いにもたれ合うように身を寄せ合っていた。ああ、このアパート群の一つに住む事になるのだろうか?いやいや、そうじゃなかった。車はさらに進む。そこは工場地帯だった。工場なら何でも揃っていた。でかいのから小さいのまで。小さいやつ、そいつはもはや工場と呼ぶ事も躊躇われた。こうば?うん、こうばだね。中からはぱたんぱたんと何やら暢気な音が聞こえてきそうなこうば、そんなものが大きな工場と工場の間に、どやしつけられて震え上がった子供のように存在していたんだ。

 

 その工場地帯を抜けると、おお、墓石がずらりと並んでいた。墓場?そうさ、墓場さ。その墓場の一角に車は停まった。そこには肩を寄せ合うように二棟のアパートが建っていた。アパート?いや、アパートではなく文化住宅と呼ぶらしい。戦争も終わり、人々に文化の香りがする暮らしを楽しんでもらおうと建てられた住宅、そいつをかつては文化住宅と呼んだんだ。

 

 「なっ?ええやろ?気に入ったやろ?ほな、店に戻って契約書つくろか?」。ろくに部屋の中を吟味する時間も貰えず、そのまま車の押し込まれた私は、元の街へと運ばれた。必死になって車の窓から街の様子を眺める。目印を探して。ポスト、信号、ラーメン屋・・・うん、実は自信がなかった。もう一度、自分一人でこの墓場の前の文化住宅に戻って来る自信がさ。

 

 店に戻ると、あっという間に契約書を作らされた。はい、どうも、おおきに、ほならまた、さいなら・・・たちまち店を追い出され、路上に佇む。不動産屋は急いでいた。何故?どうせ大した意味などないさ。多分、腹が減っていた。うん、それぐらいだろうね。契約が済むとろくに挨拶もせず、ああ、接続詞すら使ってなかった、いやいや助詞だって怪しいもんさ、ああ、それぐらいに急いでいたんだ。ともあれもう私に行くとこはそこしかないんだ。墓の前の文化住宅しかさ。

 

 両手に全財産が入った荷物をぶら下げ、とぼとぼと部屋に向かう。部屋の近くまでどうにか辿り着き、ふと目についた掲示板を覗いた。あっ、古い地図が貼ってある。さっき不動産屋で交わした契約書の住所とは違っていた。うん、この地図に書かれているのは旧町名ってやつだね。うん、私がこれから暮らす町の名前はというと、ああ、それは「墓の前」となっていた。

 

 

                                                                                                      2019.6.22.