通信21-25 ふらふら歩き回っていると色んなものに出くわすね

 今年のお盆の最終日、確か台風と満月が一緒になった日、その日以来、何だか体調が優れない。息切れとまではいかないが、胸部に嫌な圧迫を感じている。咳き込む夜もままだ。咳が続くと、たちまち二年前の心不全を思い出す。ああ、もう一度病院に逆戻りってのだけは御免だね。入院自体は楽しくもあったが、あんな事は人生一度で十分さ。体調のせいだろうか、しきりに喉が渇く。楽器をさらっていてもすぐに喉の渇きを覚え、ふらふらと部屋を出て、自販機に吸い寄せられるように水を求めに行く。

 

 朝、誰もいないスタジオの廊下をロビーの自販機に向かって一人歩いていると、ん?背後から私を呼ぶ声がする。これが芝居なら「待てととどめしなさるるはぁぁぁ・・・」と大仰に見栄を切ってみせるところだが、現実には「へえ?」と間抜けな声を洩らしながら、おずおずと振り返る。そこには、おお、ほんの二三日前にもお会いしたМさんではないですか。Мさんは私の甥と同じ楽団で、同じチューバを吹かれているお嬢さんだ。小柄なМさんの肩には、いささかだぶついた地味な色の布製のケースがぶら下がっている。うん、まるで妖怪を捕まえた子供みたいだね。ケースに入ったチューバが妖怪に見えるってのは、最近ゲゲゲの鬼太郎をずっと観続けているせいもあるんだろうか。いや、確かコントラバスの事を中国語では「妖怪的大提琴」というんじゃなかったっけ。うん、チューバも似たようなものさ。このチューバという楽器、中国語で何と言うんだろう?

 

 Мさんにお会いすると、ついつい腰が低くなってしまう。ふつつかな甥がお世話になっておりますって訳だね。まったくふつつかな愚甥ですが、何卒仲良くしてやって下さいという思いを込めて頭を下げる。ちゃんと膝も軽く曲げてさ。うん、大阪は堺の商人みたいにさ。最近、Мさんと甥、意思の疎通がうまくいってないみたいなんだ。腹を割って話せばなんて事ないんじゃないかと思うんだけどね。

 

 Мさんとお別れした数分後には、以前、長い付き合いのあった弟子がいきなり現れた。うん、元気そうで何よりだ。風の噂によると、すっかり偉い人になってしまったとかで、ええい、こっちもついでにと膝を曲げてぺこぺこしてみる。

 

 ここのところ、よくこの練習場で人に出くわす。うん、もしかしたら体調のせいで、やたら自販機に向かって歩き回るせいかも知れないね。元々は一度、練習室に入ってしまえば引きこもりのガキみたいにそこから出る事はなかったからね。

 

 そういえば数日前、ある部屋の前を通ったら、ん?中から聴こえてくる曲は、おお、ブラームス先生が書かれた舞曲じゃあないか。あれ、何だか随分と雑な編曲だぞ。いや、これは編曲とも言えない、ただオーケストラのスコアを手持ちの楽器に移し換えただけだ。以前、アメリカの友人から日本では何故、楽器を入れ替えただけの作業を編曲(arrangement)というのか、その行為はアメリカでは置き換え(transposition)と呼ばれる別の作業なんだと言われた事がある。うん、まあどっちでもいいさ。それはともかく楽器の編成を変えた事に対するフォローがまったく為されてないんだ。多分、一旦頭の中で新しい編成で音を鳴らし換えてみるという作業を端折っているんだろうね。

 

 うん、実はその部屋の中で演奏していたグループ、かつての弟子の数人が入っているんだ。聞いたところによると、メンバーが持ち回りで編曲しているそうだが、まさか自分のかつての弟子の誰かが作った譜面じゃないだろうかとひどく心配になる。向こうからすると大きなお世話だってな事になるんだろうが、ああ、やはり心配になるものはしょうがない。ともあれ、部屋に閉じ籠ってないで出歩くと、色んなものと出くわすもんだと改めて思った晩夏の一日だった。

 

                                                                                                   2019. 8. 22.