通信20-18 床屋はまだ私の事を見棄ててはいないらしい

 もう何年も前の事だが、小説家中上健次の評伝が出た。そこに描かれた若き日の中上の姿、ひとまず作家としてデビューし、それから二作目を発表するまでの経緯は、かなりの読み応えがあるもので、すっかり引き込まれてしまった記憶がある。


 今も続く、「文藝」という文芸誌の老舗みたいな雑誌、そこで「一番初めの出来事」という作品を発表した中上は、だが、二作目が活字になるまでに数年を要する。その数年の間の、編集者との激しい折衝ぶりが細かに描かれているんだ。鬼気迫るってやつだね。ともあれ一人の作家がプロになる事の厳しさが描かれているんだが、うん、やはり本物の編集者というものがいて、出版社も文学という、ややこしい割には儲からないものと真摯に向き合っていたという、良い時代の雰囲気がひしひしと伝わってくる本さ。


 まだ今よりも随分と若く、初めて自分の譜面が印刷された時、私が何にびびっていたかというと、それは浄書屋さんたちにさ。浄書、一般の人たちには聞き慣れない言葉かもしれないね。一方で写譜屋という人たちもいて、彼らはよく混同されているらしい。写譜屋ってえのはさ、作曲家が書いた譜面を、実際の演奏に使えるように書き直して下さるという有難い方々だ。作曲家が書く譜面には、ピアノも、ヴァイオリンも、三味線も、ともかくその曲の中で使うすべての楽器のための譜面がまとめて書き込まれている。これを総譜というんだが、その総譜からひとつひとつの楽器のための譜面を個別に書き出す作業を写譜というんだ。実は、この写譜という作業に対して支払う金額は大きく、実際に作曲家が受け取る原稿料をはるかに上回るなんて珍しい事じゃあない。


 一方、浄書ってのは、作曲家が書いたぐしゃぐしゃな譜面を、印刷された時の状態に書き直す、つまり印刷見本を作る仕事だ。作曲家は譜面を書き上げると、まずこの浄書屋さんに、おずおずと譜面をお見せしなければならないって訳だ。本物のプロさ。この浄書屋というやつら。出来上がった譜面は、印刷されたものとほとんど見分けがつかない。音符はもちろん、活字だって完璧だ。イタリック、ゴチック、花文字・・・なんだってたちまち書き分けてしう。うん、「なんでもござれ」ってやつさ。それにしてもこの「ござれ」って何だろうね。時々、結婚式のスピーチで耳にするよね。「新郎は、テニスからスキーまで、スポーツはなんでもござれで・・・」。私はその言葉を聞くたびに、いちいち笑いをかみ殺していた。


 いや、そんな事はどうでもいい、この浄書屋という連中、おっと、その点は写譜屋も同じだが、作曲家としてのかなりの修練を積んだやつらなんだ。有難い事に、作曲家が犯したミスをさりげなく修正してくれる。相手が若い作曲家ならば、決して委縮する事のないように、時には冗談めかして、修正した部分を確認してくるんだ。口数の少ない、職人風の人が多かったように思うが、いずれもこちらが襟を正さなきゃあ向かい合えないような風格があって、うん、この人たちとの付き合いから、本当にいろいろな事を学んだね。コンピューターの普及がこういう職人を締め出してしまったという事は、ああ、やはりこの国の文化を大きく後退させているんじゃあないだろうか。


 そういう職人はもちろん音楽だけじゃない、さまざまな分野に存在する。例えばデザイン。デザイナーが作った作品から印刷見本を作る、その作業も昔は手書きでやっていた。どこからどう見ても写真にしか見えないという代物を拵える御仁がいらっしゃったって訳さ。数年前に、東京オリンピックのロゴのデザインに不備があるという事件があったが、本物の職人であり、作品をチェックする機能として睨みを効かせていた彼らが制作に関与していたら、あんなにみっともない事件は起こらなかったんじゃないだろうかねえ。


 突然の暑さに耐えかね、昨日は床屋に行った。散髪を終え、店を出ようとする私に、若い理髪師が「また、お待ちしていまあす」と、朗らかに声を掛けてくれる。「もうじき、私の頭は磯野波平のようになってしまうでしょうが、それでも来ていいのですか?」と問うと、少し戸惑った後、再び笑顔になって「もちろんです」と返してくれた。無表情を装いながらも、うん、内心ほっとした。


 

                            2019. 5. 25.