通信21-10 ちゃんと服を着ると、ほら、清々しいよ

 何となく落ち着かない、うん、尻がむずむずするような数日を送ったんだ。何となく仕事がはかどらない。筆、そいつが拗ねた飼い犬みたいに踏ん張って動こうとしない。梅雨が随分と遅れてやってきたせいだろうか。あるいはこの歳になって初めてパソコンってやつをこき使ってやろうと思っていたのに、逆にパソコンってやつにこき使われているせいだろうか。

 

 いつもの年なら五月の連休が過ぎたあたりから梅雨が明けた後の数週間まで、盆が近くなり粘っこい残暑に纏わりつかれ始める頃までの間に、一年の三分の一ほどの分量の原稿を書き上げるんだが、今年はなかなか波に乗る事ができないでいる。

 

 一昨日、たまたま古い原稿の束の中から、ある一曲を見つけた。もう十年以上も前、体を壊す前、まだ元気一杯でガキが街中を駆け回るように仕事をこなしていた頃、その頃書き上げた曲で、割と気に入っていたもの、いつの間にか譜面も音源も失くしてしまって記憶の中で朧になりかけていたもの、その原稿を見つけたんだ。

 

 珍しくマリンバという楽器を使った作品さ。何故マリンバ?うん、丁度その頃、活動を共にしていた愛弟子にして相方、その相方がとある街から年に一回のコンサートの企画、演奏を任されたんだ。きちんと予算内に収めさえすれば、何をやってもいいという、うん、作る側からすれば大いに胸躍る企画さ。確か最初の年はフェリーニの映画を題材に採ったコンサートをやったと記憶している。ニーノ・ロータの甘く切ない、でもどこか不思議な空気感を持つ作品群を並べたコンサート、本番こそ聴いてはいないがリハーサルには何度も付き合った。ああ、多分良いコンサートになっただろうねえ。

 

 その次の年、私は相方にゲストを呼ぶ事を薦めたんだ。相方がこれまで一度もきちんと向き合った事が無いような楽器、そんな楽器奏者を呼んで、そのための譜面を書く、うん、修業としては理想的なんじゃあないかね。それで最初に声を掛けたのが、私が以前東京で、偉大なゴーストライター新垣隆君たちと組んでいたアンサンブル、そこで打楽器を担当していた田島ゆりさんという素晴らしい音楽家にお願いしたんだ。

 

 その時、餞別代わりにさ、相方とそのゲストのために一曲書き下ろそうってんで、捩じり鉢巻き、うんすうふうすう鼻息も荒く、張り切って書き上げたのがこの曲、「マリンバとピアノのための水の流浪」という名前ばかりが立派なやつさ。何しろこの「水の流浪」というタイトル、大詩人にしてフーテンエロ爺、金子光晴翁の詩集から無断でお借りしてきたんだ。

 

 ああ、こんな事でもあると、やはり生活に張りってもんが出るね。ちょこちょことした書き間違いを改めて、新しい相方であるパソコンの力を借り、データ化したものを我が哀愁の楽譜屋、谷憲司さんに送り付けたんだ。そうしてぽーっと脱力して、うん、与太郎みたい、街角をふらふらと歩き回った。梅雨の晴れ間にさ。

 

 慌ててデータを作ったおかげですっかり疲れた体に、鍼を打っていただいた。鍼灸院を出てしばらく歩くと、あれ、何だか変じゃないかい?うん、よく見ると私はTシャツを裏返しに着ていた。まあ誰も気づかないだろうし、別にどうでもいいんだが、ああ、何だか気持ちが悪いねえ。何が変わるって訳でもないんだが、そうか普段なら裏に隠れているシャツの縫い目が表に出しゃばっているって訳だね。ああ、キリスト様はいいねえ。何てったって天衣は無縫だからね。そういえばヨハネ受難曲の中の「それは裂くな」というコラール、キリストから剥ぎ取った、縫い目のない不思議なシャツを見て「それは裂くな」と歌う合唱曲、あれは誰のどんな曲よりも感動的だね。うん、今こうしてその歌を思い出しながらキーボードを打つだけで、その手がぶるぶると震えだすんだ。

 

 そういえば私がまだ若い頃、何故か知らないよ、トレーナーとかいう服を裏返しに着る事が、若者の間で流行っていたような気がする。今はもちろんなくなってしまっただろう、福岡市は南区大橋という街にあった「たくらんけ」とかいう変な名前の飲み屋、そこで皆と暢気に酒を飲んでいたんだ。わが心のベーシスト山下成人君、うん、奈良県民の癖にお洒落な色男の山下君、彼が若者らしくトレーナーを裏返しに着ていた。「たくらんけ」のおばちゃんが「あんた、トレーナーが裏返しになっとるよ」と教えてくれる。山下君はしきりに、「いや、これは昨今の若者の間で流行っている着こなし方であって・・・」などと説明するのだが、聞く耳を持たないおばさんは「何かしらんけど、あんたは服ば裏返しに着とっとよ」と繰り返すばかりだ。うん、やはり裏返しに服を着るのは変だよね。もちろん私はすぐさまトイレに入り、さりげなくシャツを着直した。ああ、何と清々しい夕暮れだ。

 

                                                                                                              2019.7.4.