通信21-13 梅雨の醍醐味

 三日ほど思い切り作曲に集中できた。これこそが私にとっての梅雨の醍醐味ってやつさ。毎年この時期になると何故だか途轍もなく筆が進む。集中、ああ、でも年を取ると次第にそいつが難しくなっていくんだ。五線紙に向かう自分を、もう一人の底意地悪い自分がじっと見つめていて・・・。ガキがプラモデル作りにすべてを忘れて打ち込むように、うん、至福の時間ってやつさ、そんな時間が年々少なくなってゆくんだ。これまでに一度も書いた事がないようなフレーズが転がり出てくる事などほとんどなく、何を書いても自己模倣、かつての自分がやり終えた事をなぞっているような気にしかならなくなる。うん、こうなればもはや創作など苦行以外の何物でもなくなるね。もちろんそれが飯の種ならば苦行も已む無しさ。でも今は違う。誰かに頼まれた訳じゃあない。自分の腹の中を掻っ捌き、その内側を覗き込むように書いているんだ。

 

 数日前にふと思いついて開いてみた北斎の画集、普段は見る事のなかった頁、富嶽三十六景、ああ、ガキの頃からしゃぶりつくように眺め続けた絵さ。すっかり知り尽くしている、そんなつもりの版画が突然、まったく未知の物に見えだしたんだ。あれ、何だかこの絵、動いてないかい?そう思うと、ああ、こうしちゃいられない、私も書かなくちゃあ、もう時間がないんだぜ。

 

 六十代の北斎と、富嶽三十六景をものにした七十代の北斎、うん、全くの別人だね。まあ、契機ってもんはいろいろあっただろうさ。脳卒中からの生還、ベロ藍との出会い、ともかくその十年の変貌、ああ、長生きするってのはいいもんかもしれないねと思える唯一の瞬間さ。歳をとった北斎に触れる時こそがさ。長生きが良い事かって?普段はそんな事思いもしないね。錆びつき、日々衰えてゆく肉体、まったく長生きってやつは体に毒だね。

 

 「私の作品で、七十歳以前のものは取るに足りない。七十三歳になって、獣、昆虫、魚の骨格や、草木の生える様子をほとんど掴み取る事ができるようになった。八十歳になれば更に上達するだろう。九十歳になれば奥義を極め、百歳になれば神の技を手に入れ、百十歳になれば私の描く点も、線も、すべてが生きたもののようになるだろう」。自らの富嶽百景に寄せた序文さ。自身を画狂人卍と名乗ったこの爺さんを、周りにいるすべてのやつらの生気を吸い取るように生き続けたであろうこの妖怪爺を、一体どう想像すればいいんだろう?

 

 実は、私がこの序文の事を知ったのはそれほど昔じゃない。ふらりと入った映画館で観た「カミーユ・クローデル」、その映画の冒頭、ロダンのアトリエ、手遊びのように小さな彫像に手を入れているロダン、そのロダンに向かって本を読んで聞かせているカミーユ、その時読み上げていた文章がこれだったんだ。おいおい、なんじゃあそりゃと思い、映画が終わるや否や本屋に駆け込み早速その版画集を買って帰ったんだ。

 

 すっかり毒が回ってしまったね。うん、それから熱にうなされるように作品を書き続けた。どうしようもないやつを。何十年もかけて。最近は疲れてきたさ。いつの間にか毒は消えてしまったのかなんて思う事もしばしばだ。いや、違うね。その毒、そいつは血管の裏側だか、臓器の隙間だか、トムとジェリーが奪い合うチーズのようにすかすかな穴だらけの私の脳味噌の内側だか知らない、ともかくどこかに潜んでいて、私を弄ぶようにふわりと姿を現すんだ。うん、梅雨が明けるまでしばし間があるだろう。あと一つでも二つでも、ともかく夏、溶けるような官能の季節、そいつがやって来て私を仕事机から引き剥がす前に一つでも多く作品を残してやろうと思っているんだ。

 

                                                                                                     2019. 7. 13.