通信21-12 いつかおくらになる日

 ようやく自分にとってのいつもの梅雨が戻ってきたってな感じだ。いつもの梅雨?そうさ、一年に一度、狂ったように原稿を書き進める事ができる、一日中五線紙に齧りつく、まるで紙魚みたいに紙にへばりついて毎日を過ごす季節、うん、そいつが戻ってきたんだ。といっても若い頃のようにがむしゃらに突き進むってな具合に書ける訳じゃない。今は、そうさね、とりあえず誰が聴きたがる訳でもないが、それでもひたすら自分の内側に病巣みたいに貼りついている音、そしてもちろん今まで自分自身が一度として書いた事のない音、そんな音ばかりを書きたいんだ。

 

 どうすればそんな音が書けるのかって?うん、そうさ、ひたすら自分の内側に耳を傾けるしかないんだ。まるでどこかの原住民がひたすら雨乞いをするみたいにさ。ただ、自分の内側に、まだ一度も降った事のない雨のような音が潜んでいる事を、私自身ははっきりと確信している。でもそいつを引っぱり出すには、泣きたくなるぐらいの苦労が伴うって事も知っているんだ。ああ、面倒臭いね。そいつを引っぱり出す、それはまるで水の中から河馬を引っ張り出すぐらいに大変なんだ。

 

 音の世界に引き込まれてゆくと、言葉ってものがすうっと遠ざかっていく。何故って、そんな事知るもんか。ともかくそんな理があるんだろうね。今、久しぶりにパソコンを開くと、あれ、まずは言葉ってやつを思い出す事から始めないといけないね。そんな状態で、何故こんなどうでもいい文章を書いているかというと、うん、ぼちぼちと連絡をいただくんだ。最近、ブログを更新してないけど、生きているのか?ってさ。ああ、ご心配ありがとう。元気ですよ。ただ、言葉ってものをちょいと忘れかけているだけですよっと。

 

 家の近所には独居老人が多く住む一角がある。その家の軒々には、毎朝何やら手拭みたいなもんがぶら下がっているんだ。その手拭、それが何かというと、自分は今朝も無事に生きているよという表示なんだ。ご近所の方々に挨拶がてら自身の無事をご報告ってな訳さ。うん、私もそろそろくたばりそうな情緒を漂わせながら這いずるように生きている。そんな私が手拭代わりに、自分が今朝も生きている事を知らせるために軒にぶら下げる、それがこのブログってな訳だ。

 

 仕事に熱中するとたちまち家事が面倒になる。特に料理ってやつ。うん、それで同じ物ばかりを毎日口の中に押し込む事になるんだ。今週はおくらが安かった。おくら、夏になると馬鹿みたいにわさわさと増殖して、野菜売り場を占領するような勢いでのさばり始めるやつ。さあ、そいつを束にして買ってきた。鍋にぶち込み、たっぷりと煮つけたそいつを、白米と共に腹にぶち込めば食事はお終い、さあノルマは果たしたってなもんだ。

 

 詩人の長谷川龍生氏はかつて、ご近所さんから貰った「きのこ」を数日間食い続けた挙句、自身がすっかり「きのこ」になってしまったそうだ。「きのこ」になった長谷川氏は空港まで出掛けてゆき、国際線のカウンターに国鉄(現JR)の切符を示しながら乗り込もうとして警察に保護されたとの事。まさかこの私にそんな行動力があるとも思えないが、私自身がおくらになってしまう日も近い気がする。うん、そうなったら煮つけでも、天ぷらでも、刻まれて何かの薬味でもいいさ、ああ、可愛いあの娘に食べられてしまいたいねえ。

 

                                                                                                         2019. 7. 9.