通信24-29 音の宝庫を彷徨う

 梶井基次郎の「冬の日」を読み耽っている。この小説は私にとって音の宝庫なんだ。ただあまりにも「宝庫」過ぎて、なかなかそれらの音を書き取れないでいた。ともかく複雑な音の帯がもつれるように絡み合って、そいつを一つ一つほどいてゆく。ああ、ともかく手間がかかる作業さ。小説を音にするって一体どうするのかって?うん、ちょいとこつがあるんだ。翻訳ともまた違ってね。映画のように情景に音をつけるってのとも違う。うん、言葉で説明するのは難しいね。そういえば昔、即興を売りにしているあるピアニストが、譜面台に置かれた詩を見つめながら、眉間に皺をよせ、何やら難しそうな曲を弾いていたが、もちろんそんなお行儀の悪い事はしない。

 

 ともあれじっと耳を澄ましながら文字を読み込んでゆく。ここ数日、物凄く音が聴こえるんだ。といっても実際にどこかで鳴っている音が私の鼓膜を震わせるってな訳じゃあない。現実にはない音、頭か、心か、胃袋なのか知らないよ、ともかく私の中でのみ鳴っている音、そいつがまるで金魚鉢の中を泳ぐ金魚の姿を見ているかのように、はっきりと聴こえてくるんだ。

 

 自分の中で鳴っている音、今はひたすらそいつをノートに書き集めるだけさ。それ以外は何も考えちゃあいない。作品にするなんて意思もない。そんな事を考えるのはもうちょいと先の事さ。でもね、うん、作曲という行為にロマンテックな要素があるとすれば、それはこの時だけなんだ。この時期が過ぎれば後はひたすら禁欲的な作業さ。

 

 とはいっても今の私にとって一番厄介なのは、うん、演奏者の姿が見えない事だね。昔、誰かに演奏をお願いする時、「私に弾けるでしょうか?」などと不安気に尋ねられる事がしばしばだった。でも、私自身はそれについて心配する事はなかった。その点は職人的なんだ、この私は。洋服屋が綿密に客のサイズを測った上でぴったりと合う洋服を仕立てるように、私も相手の演奏家の技や、好み、その他諸々に寄り添うように作曲する。すでに存在している曲は、相手の存在に合わせていくらでも書き直す。

 

 そういえば以前、十年ほど活動を共にしたピアニストはとても素晴らしい技量を持っていたが、ただその手が小学生並みに小さく、そのままではオクターヴも届かなかった。そのピアニストと組んでいた十年ほどの間、私はピアノのパートにオクターヴの動きを使う事はほとんどなかった。そのピアニストと別れた後も、しばらくオクターヴのパッセージを書く事ができず、大いに苦労したもんだ。

 

 でも、実は好きなんだよね。誰かの為に書くってのがさ。というより、自分のために書く事ができないんだ。作曲だけじゃないさ、私は自分自身の為に何かをするのがとても苦痛なんだ。何故そんな変てこな人間になってしまったのかは自分でもわからない。ともかく自分の中に何やら深い心の傷みたいなものがあるのだけは何となくわかる。人様の為に何かをしている時だけは自分が生き生きとしているのが、うん、よく分かるんだ。

 

 ああ、この冬の日をモティーフにした曲、私はこいつを自分の為に書き出すんだろうか。そう思うと何だか砂丘に全裸で立ち尽くしているかのような不安に襲われる。作品に形を与えてくれるのはあくまでも演奏者なんだ。そういえば演奏者と顔を合わせ、瞬く間に頭の中をゆらゆらと漂っていた音群が、ぴたりと作品として自分の中で納まったという体験は珍しくない。

 

                                                                                                  2020. 11. 3.