通信23-11 函館ってどんな街なんだろう

 春嵐?いやいや、そう呼ぶのはあまりに大袈裟だろう。いきなりの驟雨が窓を打ち、強い風があたりを吹き抜ける。うん、三寒四温の三寒ってな感じだね。一昨日から冷え込みが始まったから、そうさ、明日からはまた四温に入るんだろうさ。

 

 昨日、原稿を上げてから、我が心のチェリストМさんから、そういえばちょっと前になにやら動画をお送りいただいていたんだと思い付き、早速聴いてみた。おっと、いきなり音が体の中に流れ込んできて、アニメの登場人物みたいに心臓がどきんと胸から飛び出しかけたじゃあないか。

 

 作曲中は一切の音を遮断している。今回は街中で仕事をしたので、ああ、いろいろと苦労したね。十日ほどで書き上げられるだろうとあたりをつけ、その分の食料を買い込んで、ほうら、冷蔵庫はぱんぱんさ、といっても作曲中はほとんど物を食べないので、今、昼休みの間に給食を食べきれなかったガキみたいに、べそを掻きながら冷蔵庫の中の物を片っ端から口に押し込んでいる。

 

 まとめ買いをするのはさ、うん、市場やスーパーマーケットってところは軽薄な音楽の宝庫だからね、一歩足を踏み入れると、有線放送の歌謡曲や映画音楽、各売り場の前では「お肉、お肉、お肉食べよおおおおう・・・」だとか「魚魚魚、魚を食べると、頭頭頭、頭に良いのさ・・・」などという歌がライフルの弾のように、私の頭を撃ち抜くんだ。

 

 いや、そんな事はどうでもいい。ともかく仕事は終わったってんで、Мさんのチェロの音に耳を傾ける。おお、オクターヴなんて俺様にはなんの縛りもないぜ、とでも嘯いていそうな、二オクターヴをも軽々と飛び越えてしまうリヒャルト・ストラウスの旋律が飛び込んできた。

 

 ああ、良いねえ、伸びやかってのはさ、こんなものを言うんだろうね。Мさん、勢いがあって、しかも純真で、まるでいきなり子犬に飛びかかられたみたいでさ、私はとても嬉しくなって、大笑いしながら聴いたんだ。いいぞ、いいぞ、いいぞってなもんさ。

 

 それにしてもこのシュトラウス先生、画用紙からはみ出した子供の絵みたいな旋律、どこから出てくるんだろうねえ。子供の頃、紅白歌合戦をいう番組を観ていて、そこに現れた北島三郎先生、「はあああるばるう、来たぜ、はあこだてえええ・・・」という旋律を始めて聴いた時、まだ小学生だった私は驚いたんだ。いきなりオクターブを飛び越えて、最高音は十度に達した。それは喜びの表現だ。おいおい、一体函館ってそんなに嬉しい街なのかねなどと思いを巡らせたんだ。でもこのシュトラウス先生の旋律にはそんな喜びは感じない。ただただ緻密に積み重ねらた音のブロックが見えてくるだけだ。

 

 まだ若かったシュトラウスが、ブラームスにおずおずと自作を見せた時、ブラームスはともかく八小節ぐらいのしっかりした旋律を書くようにとのアドヴァイスを送り、それ以降シュトラウスブラームスに近づく事がなかったというエピソードがあるが、シュトラウスの音に対する距離感の独自さを解き明かすのにブラームスとの対比は大きなヒントになるのではないかと思っている。

 

 それから夢と現の間をゆらゆらと漂いながら、これまたМさん、こちらは我がご近所のМさん、そのМさんから差し入れていただいた音源、チューバ四重奏、そいつがたっぷり詰まったCDを聴いたんだ。チューバ四重奏というから、さぞかし狭い空間にぎゅうぎゅうに音を詰め込んだ感じだろうと勝手に想像していたが、チューバと言っても色々ござるってんで、幾種類かの長さの違うチューバを組み合わせた合奏は思いの外、輪郭のはっきりしたものだった。うん、夢の伴奏としては最適だね。なんだかふわふわしていてさ。ああ、お陰で悪夢ってやつをすっかり和らげていただいたんだ。

 

                                                                                                            2020. 4. 13.