通信21-11 昔、富士山を描き続けた爺さんがいた

 ようやく音ってものに対して静かな気持ちで向かい合える日が戻って来たような気がする。朝起きたら、まずは机に向かい、ぱらりとさらの五線紙を机に広げ、うん、作曲家ってのはこうでなくっちゃね、パソコンに頭を突っ込んで下らない文章ばかり書いていてもしょうがないさね。

 

 いや、実は朝起きて五線紙を広げる前にやる事がある。富嶽三十六景、そう、あの画狂人北斎の版画、そいつを眺める事から一日が始まるんだ。一週間ほど前の朝だっただろうか、突然の違和感を感じ、ん?ん?ん?・・・などと、この気持ちは一体なあに?ってさ、まるで二昔も前の国営放送が作った連続ドラマ、そのヒロインが突然自分を襲った恋心にうろたえた時のように、慌てふためきながら首を捻ったんだ。

 

 それしにしても国営放送のドラマ、あの紙芝居めいた古臭さは一体どこからくるんだろうね。そういえば週末に流していた海外ドラマのシリーズ、あの吹替さえもが古臭いんだ。「ビバリーヒルズ○○白書」だとかさ、何やら見栄えの良いあんちゃん、おねえちゃんたちがすったもんだを繰り広げるドラマなんだが、リーゼントに頭を固めたあんちゃんが「おっと、やっこさん来なすったぜ」などと口走るんだ。うううん、原文は一体どうなっているんだろうか?ちなみに翻訳スタッフの中に武満真樹さんが、あの武満徹大先生のお嬢さんさ、その名前が入っていたが、あの聡明な美しい武満さんが「やっこさん」などという言葉をお使いになるのだろうか?

 

 いや、そんな事はどうでもいいんだ。私は随分と北斎の肉筆画ばかりにこだわり過ぎた気がする。富嶽三十六景といえば齢七十を超えた大家の作品だ。そんな作品を無視して良い訳がないじゃないか。そう自分を叱り飛ばし、画集を机の上に開いてみると、おお、くらくらと眩暈がするじゃあないか。何と変てこな絵。何なんだろうこの歪んだ構図。北斎は、当時西洋から伝わってきた遠近法、うん、透視法ってやつね、そいつを誤解したまま絵を描き続けていた事は有名だ。それで私も、いつの間にかそれで納得してこれらの版画を眺めていたって訳さ。こんなもんなのだろうってさ。歴史ってやつを後から振り返ってほくそ笑む、あの増上慢どもと同じような気持ちを持ってさ。

 

 ああ、まったく糞くらえだね、この私ってやつは。ああ、ぐいぐいと引き込まれるじゃあないか、画狂人の世界にさ。晩年の北斎は「画狂人卍」なる筆名を使ったが、その卍さながらに渦巻きながら観る者を引き込んでゆくんだ。その構図、色彩、すべてが何物とも違う。うん、それで朝っぱらから蛍光灯の光を頼りに、汗をたあらたらたらと流しながら、画集に頭を突っ込み続けているんだ。

 

 それにしても富嶽三十六景との出会いはあまり幸せなもんじゃあなかったね。うん、私が初めてこの絵の存在を知ったのは小学生の頃。永谷園のお茶漬けのおまけについていたカードさ。来る日も来る日も茶漬けばかりを掻き込んで、ひたすらにカードを集め続けたんだ。永谷園の方も一筋縄ではいかない。そう簡単に三十六枚のカードが揃わないようにできているんだ。希少カードってのがある訳さ。いやいや、ちょっと待てよ。ある程度の数を集めたら、確か抽選で大判の版画集と交換してもらえるんじゃなかったっけ?そうさ、そして私は抽選に外れ続け、茶漬けばかりの食生活のせいで、痩せていながら腹ばかりが飛び出す偏食のガキになってしまったんだ。

 

 西洋の透視法だと天の線と地の線は遠方で一つに集約されるんだが、この北斎翁、どういう訳か、画面を三つに分割し天の線と地の線を別々にしてしまったんだ。本当だぜ。疑うなら「北斎漫画」の三篇を見て欲しい。「三ツワリの法」「二ツを天とすべし」「一ツを地とすべし」、そうして天の線と地の線の間に「ここにて一寸」という謎のスペースが設けられた図が載せられている。実際に北斎翁がその誤解をどうとらえていたのかは知らないが、多分、どこかに矛盾を感じ、その矛盾と遊び戯れるように作画を続けていたんじゃないだろうか?ともあれ観ているわれわれの視線はどこにもとどまる事ができず、ひたすらに不思議な風景上を旋回するように彷徨い続けるしかないんだ。

 

 矛盾?うん、そんな事はどうでもいいのさ。ともかく作品として在らしめる事、それだけだね。何十年も勉強し続けている和声法だの、対位法だの、そんなしかつめらしい理屈がすうっと自分の中で消え去る瞬間を夢見ながら、ひたすら書き続けるだけさ。

 

                                                                                                                2019. 7. 6.