通信24-15 あるヴァイオリニストの思い出

 もう随分と昔、まだ私が洟垂れ小僧だった頃、時折目にした映像がある。それが邦画なのか洋画なのか、あるいはテレビドラマなのかも定かじゃないが、ともかく暗い画面の中、いかにも意地の悪そうな男が鞭をふるいながら「働け、働け」などと叫んでいる。下級労働者か、あるいは奴隷階級の者たちかもしれない、ともかく泥まみれになった人々がうなだれたままなにやら肉体労働に従事している。そんな映像を何度も見ているという事を鑑みると、もしかしたらその「働け、働け」という台詞は何かしら無体な労働を強いる者の言葉としては定型なのかもしれない。

 

 などとそんな事をここ数日ぼんやりと思い浮かべているのは、うん、私自身が「働け、働け」と他者に命じる立場にいるからさ。そんな台詞を誰に向かって放ち続けているのかだって?もちろん私の目の玉だ。新しい眼鏡をかけて、労働力が一気にアップしたその健気な目の玉に、私は容赦なく鞭打ち続けているんだ。

 

 譜面を書くだけじゃない。読み込むスピードも、正確さもまったく変わった。これまでシャープだのフラットだの、その手の記号はすべて当てずっぽう、何となくこんな感じじゃあないだろうかなどと、いい加減な感じで演奏していたんだ。もちろん姿勢も良くなった。ちょいと前までは、餌を欲しがるキリンのように首をぐんと譜面台の方に伸ばしてピアノをさらっていた。ああ、さぞかしみっともない姿勢で演奏していた事だろうね。

 

 そういえば、とても達者にヴァイオリンを演奏するんだが、臨時記号に関するミスが多い女性と、以前アンサンブルを組みかけた事があった。組みかけた?うん、一度か二度、リハーサルをこなしたあたりで突然留学が決まったんだ。ミュンヘンに。ミュンヘン、今はヴァイオリン奏法について最も進歩的だと言わる街の一つさ。その彼女、「二年たったら必ず帰ってきますから」という言葉を残して去って行ったんだが、うん、そう言って実際に帰って来た留学生を私はほとんど知らない。まあ、いい事さ。素晴らしいヴァイオリニストだったんだ。今頃、ミュンヘンで立派に活躍している事だろうと思う。

 

 その彼女、立派な眼鏡をかけてはいたが、それでもほとんど臨時記号が見分けられなかった。乱視だの弱視だの、何やらかにやらが彼女の目の中では複雑に絡み合っていたらしい。へえ、大変だねえ、などと口先で御愛想を言ったものの、自分がそうなるまでは具体的にその目に映る映像を想像する事などできなかった。

 

 そういえば彼女、御徒町というところに住んでいたんだ。御徒町に住んでいると言うと、誰もが御徒町って人が住めるような建物があったっけ?と首を傾げるようなオフィス街だ。さぞかし酔っ払ったサラリーマンが沢山いるんじゃないのかという私の質問に、「夜はしょっちゅう酔っ払い絡まれて困ります」と言う。へえ、どうやって切り抜けるのとさらに質問を重ねると、きっぱりとした口調で、しかし阿波踊りの踊り手みたいに手をくねくねと動かしながら「狂人のふりをして立ち去ります」と教えてくれた。ううううん、それは是非、一度でいいからその現場を見てみたい。いや、そもそも彼女の頭の中にある狂人のイメージとはどういうものなのだろう。ああ、興味は尽きない。

 

                                                                                                         2020. 10. 15.