通信23-12 ハンバーガー屋で過ごす朝

 仕事を終えた後の、何か大切な物を置き忘れてしまったかのような妙ちくりんな不安も次第に薄れてきて、うん、いつもの薄ぼんやりした自分が戻ってきた。ここ数日は、すっかり疲れ果てて、使い古された古雑巾のような自分の体に鞭打つように、朝から散歩に出掛けている。ともかく体を動かさなくちゃね。

 

 家に帰って朝食の準備をする気力も失くした私は、最近新しく生まれ変わった近所のショッピングモール、そこにあるハンバーガー屋で朝食を済ませるんだが、思いの外、そこが居心地の良い場所である事を知った。といっても街中が伝染病に委縮し、人々が殻に閉じこもるサザエのように家に籠っている今だけの事だろうが。

 

 そもそもハンバーガーなどという食べ物は嫌いだ。何より食べる作法がよく分からない。私がガキの頃を過ごした街は、米軍基地があったせいでアメリカに浸食されたような場所だった。街を歩きながら横目で見るハンバーガー屋の店内、そこで斜にカウンターにもたれかかるようなルーズな態度でハンバーガーを頬張る、そんな米兵たちを見るたび、自分には決してあんな真似はできないなと思っていた。実際、今、ハンバーガーを食する私は、どうしても律義に両手でハンバーガーを持ってしまう。ああ、これじゃあ初めてハンバーガーに出会った田舎街の校長先生みたいだよなあと嘆きながら。ちなみに山下清画伯のように、左右の手にそれぞれ持った握り飯に交互にかぶりつく事も多分できない。

 

 今朝も公園を抜けて、部屋に戻る途中、その真新しいショッピングモールを通った。人なんか誰もいない。乾いた空気の中、聴く者もいないのに律義にベートーヴェン弦楽四重奏が流れている。えっ?これって私に聴かせてんの?ふん、とんだお節介だぜ。私は頭の中に、取るに足りないものながらも一応自分の音をぱんぱんに詰め込んでいるんだ。

 

 真新しいハンバーガー屋の二階に上がると、ほら、ほとんど人がいないじゃないか。カウンターの一番端に座る。目の前は一面の大きな窓だ。窓の外には光を遮る大きな建物もない。燦々と射しこんでくる朝の光に目を細める。

 

 うん、実はとても助かっているんだ。最近分かったのは、ともかく明るけりゃあ、この泥の塊みたいな私の眼球だって少しは使い物になるって事さ。うん、書き上げたばかりの新作、その校正をしなきゃあならないんだ。校正、そいつはまさに拷問にみたい、ある意味、作曲する以上に私にとっては辛い作業だ。何しろ何を考えているのかもろくに分からないような馬鹿な三流の作曲家(もちろんそれは私自身だ)、そいつが好き勝手にぐにゃぐにゃと書き込んだ、どこか遠い異国の呪いの暗号のような音符を見て、その間違いを直していかなきゃあならないんだ。

 

 この店の明るさは、そして静かさは(今、私の部屋の斜め前ではマンションの新築工事が続いている)、私にとって何よりの救いなんだ。うん、実は今日は北斎の画集を持ち込んでみた。晩年の、画狂人卍時代の、肉筆画をたっぷりと詰め込んだ画集さ。ああ、いいねえ、北斎が紡ぎ出した無限に変化する色彩、デリケートな描線の変化、うん、何だかそれがこの明るい場所ではよく見えるんだ。という訳で、ここ数日は幸せな朝を過ごしているって訳だ。

 

                                                                                                                  2020. 4. 14.