通信22-33 冬陽の中 舞踏に寄り添う

 朝、泥の中で目を覚ました。泥の中?いやいや、泥じゃない、確かに泥に近いような物体ではあるが一応これはまだ布団と言っていいだろう。夢の中で私は古い友人に組み付かれていた。おいおい、止めてくれよ、私にはその手の趣味はないんだ。・・・その薄気味悪い悪夢から醒めると、まるで知恵の輪のような複雑さで布団が私に絡みついていたんだ。うん、これは決まってひどく疲れた時の朝に起きる現象だ。体を起こしてみると、あれ、弥次郎兵衛みたい、なんだかふらふるするね、それに随分と頭が重いじゃあないか、まさか福禄寿みたいな頭になってるんじゃないだろうな。

 

 ああ、自分でも気づかなかったが、結構疲れていたんだな。というのも昨日は舞踏家たちとセッションというものをやったんだ。即興で踊りまくる舞踏家たちに向かってやけくそのように音を投げつけ続けたんだ。三十分のセットの二本、最初はピアノで、後半はサキソフォーンでお相手した。後半三十分、ほとんど休符を入れる事もなく、循環呼吸を使って、空間を埋めるように心がけながら演奏したんだが、ああ、そういえば終わり近くなって、時々音が掠れ、うん、声が枯れるようにさ、あれれ、もしかして疲れているんだろうかと一瞬感じたものの、そのまま吹き終えた。それから近くの居酒屋でうだうだと過ごし、ゆらゆらと帰る途中、あっ、そういえばだんだん頭が重くなってきて、そうだ、ふらふらと、そのあたりから私の弥次郎兵衛化が始まっていたって訳だね。

 

 昨日は光にやられた。会場はあれやこれやでよくお借りする機会がある教会。勝手知ったる何とやらで、リラックスした中、演奏を始めたんだが、教会の窓から斜めに柔らかく差し込んでくる冬陽、そいつに心ってやつをかどわかされたんだ。目の前の舞踏家たちの動きに紗を掛けるように、陽光と舞踏家たちが溶け合う、その手助けをするようにと、そう思いながら演奏を続けた。

 

 それにしてもここまで疲れるとなると、ああ、潮時ってやつかね。サキソフォーンを使った活動は去年の秋で止めると仲間内には宣言したんだが、やはり長年親しんできた使い勝手のいい道具としてのサキソフォーン、頼まれ事にはこいつを使わないって手はないね、などと嘯き演奏してみたんだが、うん、これ以上やると多分、回りの方々にもいつかご迷惑をお掛けする事になるんだろうね。何よりお客様にくすんだ、鄙びた音をお聴かせする訳にはいかないしね。それにこの手の仕事をしたがっている若い奏者はいくらでもいる。うん、これからはそういう若者をにこにこと紹介して回るような好々爺になるとしよう。

 

                                                                                                          2020. 2. 12.