通信27-6 頭に残る嫌な音

 疲れが全く取れない。作曲呆け?うん、ともかくそういうものからなかなか立ち直れないでいる。翳み目、その目を使って何かをじっと見つめると、いててて、たちまち眼球が激痛に包まれるんだ。おまけに平衡感覚がおかしい。便所に行くのにもふらふら、ああ、まるでやじろべえだね。サーカスの綱渡り芸人が抱えているあの横に長い物干し竿みたいな棒、ああ、そいつが欲しいね。

 

 今月書き上げたばかりの四重奏曲、まさにそいつにすべてをぶち込んだってな感じだ。視力も体力も、惜しみなくそいつにつぎ込んだ訳だが、もちろん後悔などみじんもないさ。人生とやらの最後に近くなって、ようやく思っていた物が書けたんだ。そのために数十年も泥水を呑むような生活に耐えてきたんだ。

 

 視力、体力、うん、それよりももっと異常をきたしているもの、そいつは聴覚さ。耳がぐだぐだに疲れている。四六時中、じっと耳を澄ませたままでこの数か月を過ごしたんだ。とはいえ自分自身でもよく分からないんだが、耳を澄ませるってのはどういう状態なんだろう。じっと耳を澄ませる、もちろんそれはこれから目の前の五線紙に書きつけるための音を聴き取ろうという行為さ。でもその書き取るべき音、そいつは自分の内側にしかないんだ。別に鼓膜の振動を捉えるって訳じゃあない。それなのにひたすらに耳を澄ませている自分がいる。耳を澄ませる、そいつは一体何をどうする事なんだ?ともあれ今は音に対して異常に敏感な状態が続いている。そうさ、この状態から抜け出さない限り、疲れなんて取れようがないのさ。

 

 そういえば最近変な音を二度ほど耳にした。ひとつは数日前、部屋の中がほとんど夕暮れに沈みかけた頃、たまたま私は洗面所にいた。部屋は三階にあり、洗面所の窓からは小さな四つ角が見える。遅い午後にシャワーを浴びながらその道を人々が行き来するのを眺めるのが私の日々の楽しみのひとつなんだ。ともかくその夕方、窓の外からこれまでに聞いた事のないような音が飛び込んできた。これまで聞いた事が無い、にもかかわらず何とも不快な、不吉は事を思わせるような音だと直感した。

 

 身を乗り出して窓の外を眺めると、おお、その小さな四つ角に人が倒れているじゃないか。無造作に止められたタクシーから慌てて運転手が走り出てくる。うん、交通事故ってやつさ。近くには自転車が「転がる」という感じで倒れている。撥ねられたのは高校生、その高校生、何とか立ち上がろうとするが、すぐにへなへなと紙人形みたいに倒れてしまう。道に横たわった高校生を挟んで多分、たまたま通り掛かった善意の第三者と、タクシーの運転手が頻りに言葉を交わしている。やがてパトカーがやってきて、しばらくすると高校生も何とか歩けるようになり、しだいに場の緊張も緩んでいったんだが、ああ、その不吉な音だけはなかなか頭から離れてくれないんだ。

 

 これは今朝の明け方か、夜中か、いずれしにろ真っ暗な中、私は突然の嫌な音、うん、これも聴いた事のない音だね、そいつに起こされた。おいおい、一体何の音だよ、そう思いながらもうとうとと眠りの中に落ち込むと、またその音に起こされる。嫌な感じがした。なんの音なのかも分からないが、あれ、この音もしかすると私の内側から鳴っているんじゃないだろうか。それだったら堪らない、何とも言いようのない不安を抱えながらも再び眠りに落ち込んでいった。

 

 幻聴、以前読んだある精神科医が書いた論文によると健常者における幻聴のすべては、一度現実に聴いた事がある音だそうだ。つまり幻聴というのは記憶のこだまのようなものさ。それに対し、一度も聴いた事のない音を幻聴として聴く人間、それは統合失調症の患者だという事だ(いささか古い論文なので精神分裂症というおどろおどろしい名前で表記されていたが)。ふとその論文を思い出して私は大いに不安になったって訳さ。

 

 でも今になって考えるとあの音、そいつはどうも明け方の私の咳の音なんじゃないのかね。作曲呆けでいつもより深く眠っていた私には、咳の音もいつもと随分と違って聴こえていたんじゃないだろうか。ともあれそう自分に言い聞かせようとしている。ちなみに聴いた事のない音を幻聴として聴いていたんじゃないかと思われているのが、あのクロード・ドビュッシーという作曲家さ。ううううん、何となく分かるような気がしないでもないね。

 

                                                                                                          2022/ 10 /27.