通信21-23 一年で一番静かな日を過ごす

 「メリークリスマス&ハッピーニューイヤー、ボンボボン・・・」。随分と前の事だが、あるラジオ番組の中でレベッカというグループのヴォーカルだったノッコという人が、一年中の嬉しい事を一つの歌に詰め込んでみたなどと言いながら、口ずさんだのがこのフレーズだ。「ボンボボン」とはどうやら「お盆」の事らしい。それを聴いた時、ノッコという人はいい家庭のお嬢さんなんだろうなと思った。お盆になると家族や親戚が集まり楽しい一時を過ごす、うん、そんな記憶を心の中にしまい込んでいる人ってのは何かしら幸せそうでいいねえ。

 

 その盆もようやく過ぎた。不思議と盆を過ぎると何故か肩の荷を、うん、何一つ肩に背負っている訳じゃあないんだが、そいつを下したような気がして、安堵と共に大きく息を吐く。

 

 特に何の当てもない私にとって、盆は正月やクリスマスと並んで静かな時を過ごす特別な日となっている。特に盆の頃は、原爆の日終戦記念日などと絡んだ放送がラジオから流れ続け、淡々と語り続ける老人たちの戦争体験談や、NHKのアナウンサーに特有の低い静かな声に耳を傾け続けている。ガキの頃は年寄連中から、盆になると地獄の釜の蓋が開くから、海に行ってはいけないなどと脅された。地獄の釜の蓋?うん、そんな事を言われ続けたせいなのかどうかは自分でも分からない。ただ、この三日間は何故か彼岸と此岸が妙に近づき、自分を取り巻く空間が大きく乱れている気がして、ひたすら酒を飲みながら死に別れた人たちの事ばかりを考えている。時には、若くして死んだ友人の事など思い出し、涙を流したりもする。

 

 といっても若い頃から、今の用に精進臭い盆を過ごしていた訳じゃあない。多くの会社が連休となるこの時、誰か一緒に過ごす者がいれば、相手に合わせて浮かれて出歩きもした。ここ十年ほどはご無沙汰しているが、それまではほぼ毎年、長崎の精霊祭りに出掛けていた。相手と連れ立って楽しく浮かれ歩く事もあったが、その日はほとんど一人で、坂の多い街を彷徨い歩いた。

 

 初めて精霊流しに出掛けた人は、その喧噪ぶりに驚くらしいが、私自身はうるさいと感じた記憶はない。いや、それどころかひどく特殊な静寂の中にいると感じている。精霊流しの数日前になると、市内のスーパーの前には長机が並べられ、そこで爆竹が売られる。一杯に爆竹が詰め込まれた段ボールには家庭用という文字がマジックで書かれている。家庭用?うん、段ボール箱単位で買った爆竹を常に鳴らし続けながら、それぞれの家庭が精霊船を曳き歩くんだ。

 

 何もない空間に突然爆竹の音が響けば、そいつはうるさいってな事になるんだが、ここでは常に爆竹が鳴り続けている。終わりなく。それは静寂さ。せり上がった静寂とでも言おうか、密度の高い静寂、押し潰されそうに密度の高い空間が自分を取り巻いているのが分かる。その静寂、それこそを作品にしたいんだと、初めてそこに立った私は衝撃を受けたんだ。それから数十年、毎年、その溢れかえるような静寂を体験するために長崎の街を訪れ続けたんだ。

 

 暦の上ではちょいとずれてはいるが、ああ、一年の後半に入ったってな気がしている。早速、朝から近所の文房具屋で下書き用の大学ノートを三冊買ってきた。えっ?これから三曲も作ろうってのかい?うん、そうさ、最近では長崎に行く事はなくなったが、この三日の間、耳を澄まして感じた濃密な静寂を音にするのさ。

 

                                                                                                          2019, 8. 16.