通信21-26 セゴヴィアとちびまるこちゃん

 何気なく朝刊を眺めていると、ん?一枚の写真に目が留まった。この悲し気な表情でギターを抱えたおっさんは?おお、まさしく伝説のギタリスト、アンドレ・セゴヴィア大先生ではないか。一体、何の記事なんだろう?うん、連載中の古賀政男氏の伝記。ふうん、音楽家の伝記なんてほとんど興味がないから、いつも適当に読み飛ばしている連載記事だった。

 

 その記事によると古賀の自伝に、はセゴビアのコンサートを聴いた後、その興奮が収まらないうちに「影を慕いて」の詞と曲を作り上げたという記述があるそうだ。へえええ、と私は驚いた。何に対して驚いたかといえば、うん、セゴヴィアの長生きぶりについてさ。具体的な日時は書いていないが、古賀がセゴヴィアを聴いたのはいつ頃の事なんだろうか。実は私もセゴヴィアの演奏を生で聴いた事があるんだ。

 

 私が聴いたのはほぼ晩年、確かセゴヴィアが亡くなる前年ぐらいじゃあなかったっけ?今はもうない「メルパルク」という郵便局のホールさ。千二三百人ほどを収容できるホールだったと記憶しているが、その二階席に私はいた。ステージに現れたアセゴヴィア爺さん、あれ?このコンサート、マイク使わないの?クラシックギターのコンサートでマイクを使うのは普通にある事だ。私も以前、オーケストラとギターの協奏曲を指揮した折、ギターにだけはマイクを使った。ただその時は音響技師がどうしようもないぼんくらで、ともかくギターが聴こさえすれば良いだろうというような無神経な操作に頭を抱えた記憶がある。

 

 ともかくそのセゴヴィア爺さんの姿を見た時には不安になった。二階席から見下ろすステージ、そこにぽつりとギターを抱えた爺さんが一人、ここまで音が聴こえてくるのかねえ?実際に演奏が始まると、ああ、変な勘繰りをして済みませんってなもんさ。確かにギターの音は小さい。あまりにデリケートで、時には呟きとしか言えないようなフレーズすらあった。でも、そこにいる全員が何とかその音を耳で拾おうと、一音たりとて聴き逃すまいとステージに向かって恐ろしいほどに集中したんだ。ああ、素晴らしいコンサートだったね。消費者ってのはともかく贅沢でわがままなものさ。ゆったりとしたソファーに包まれるような音を演奏家にせがむのを当たり前だと思っているんだ。でもこのコンサートは違った。立ち上がり手拍子で熱狂を作り上げるコンサートがあるように、熱狂的な静寂に包まれた不思議なコンサートだったんだ。

 

 久々に新聞を読んで、何やら感慨を覚えた朝だったが、実はもう新聞を取るのは止めたいと思っているところだった。元々は失くした視力と取り戻すためのリハビリの道具として、視力の目安として取り始めた新聞だった。それに当時は四コマ漫画が「ちびまるこちゃん」だったんだ。もう「ちびまるこちゃん」も終わってしまったしなあ。

 

 そういえばその頃よく一緒に遊んでいた女の子に、今○○新聞では「ちびまるこちゃん」を連載しているんだぜと、ちょいと自慢気に話すと、彼女は「何と豪勢な・・・」と答えた。私はその「豪勢」という言葉に笑いを堪えた。彼女の頭の中にある新聞の四コマ漫画のイメージはどういうものなんだろう?もしかしたらサラリーマンが公園のベンチに座って「うわあ、ペンキが塗りたてだあ」とか、会社の前に落ちているバナナの皮を踏んで「すってんころりん」だとか、そんな古臭いものをイメージしているんじゃないだろうか?

 

                                                                                                           2019. 8. 23.