通信27-14 ああ、E君にお酒を送らなければ

 ここ一年ほど一緒に音楽理論の勉強をしているTさん、勉強の一区切りとして数か月掛けて取り組んでいた編曲が完成した。ならばそいつを実際に音にしてみよう。ついでに録音して記録に残しておこうってんで、昨日は昼中スタジオにこもってせっせせっせと事に励んだんだ。

 

 すっかり埃をかぶって眠り込んでいたマイクや、レコーダーを引っぱり出し、久々に組み立ててみる。あれ、このコード、どこに繋げばいいんだっけ?鯉のぼりを上げるお父さんのように浮かれながらマイクスタンドを高々と掲げ、宙に吊られたマイクを見上げていると、たちまち頭がくらくらと、うん、駄目だね、普段取らない姿勢がたちまち眩暈を誘い出すんだ。

 

 ともあれモーツアルトソナタが二曲、全部合わせて楽章が六つ、それぞれ複数回録り直すという作業を五時間で終わらせようっていうんだ。なかなかのばたつき具合さ。ちょこちょこと小さな演奏のキズが現れるが、別に売り物を作ろうってんじゃない、もしいいとこ編曲のサンプルにできればというぐらいの気楽な気持ちで取り組んでゆく。ともかくTさんと、お手伝いに来てくれたピアニストのOさん、二人がぎすぎすした気持ちにならないように気を付けながら作業を進めてゆく。

 

 さあ、あと一テイクだ、というところまでこぎつけ、半ば安堵したところで、あっ、頭が猛烈に痛い。おっ、吐き気が込み上げてきた。突然ぐらりと体調が崩れたんだ。演奏している二人のテンションが下がらないように必死で笑顔を作る。いやいや、笑いすぎるなよ。笑いすぎると口の端からたらりたらりと涎が垂れてくるぜ。そうさ、突然体の抑えが利かなくなったんだ。お二人には申し訳ないが、最後の一テイクは全く記憶が無い。ともかく一秒でも早く終わりますようにと心の中で祈りながら、じっと譜面を見つめているふりをしていた。

 

 ともかく録音が終わり、晴れやかな顔を作って、「お疲れ様でした」とへらへら、「それではまた」とスタジオを後にし、自分の部屋へとたどり着く。スタジオから自分の部屋まで急ぎ足で一分半、その近さに心の底から感謝しながら布団に潜り込んだ。ベッドに倒れ込む自分の姿を昭和の老人たちなら「ばたんきゅう」とでも表現するんだろうかねなどと思い、一人くすくすと笑いながら、しかし意識を失うように眠り込んでしまった。

 

 真っ暗な中、目を覚ます。頭が痛い。目が痛い。吐き気がする。一体何時だよと枕元にあるラジオのスイッチをひねると、唐突に流れてくるのは黒人特有の苦みのある女声?いやいや、これは間違いない、デューク・エリントン楽団のトランペットの音だ。夜中にこんな音楽を流すのは、ああ、多分NHKの深夜放送だな。番組名は「ロマンチックコンサート」、ならば二時と三時の間か、などと思っているうちにまたすぐに眠りに落ちる。

 

 朝、どんよりした頭を燦々と降り注ぐ朝日に晒しながら、そろそろ本当にやばいかななどと呟いてみる。以前は一年に一度ほど訪れた体調不良が最近は不定期だが、それでもあまりにしばしば現れる。ふかふかの枕に頭を埋めたまま、取り急ぎ絶対にやらなければならない事を順番に思い出してみる。絶対に書かなければならない譜面や文章、返さなければならない借金、そういえば楽器だって人様に借りたままのものがあるんだ。押し入れの天袋の中にはかつて本当に御世話になったコントラバス弾きのE君へいつかは渡す予定の酒が何本も入っている。部屋の片づけ、今住んでいるここだけじゃないぜ。青藍山の仕事場が二つ。ああ、気が遠くなりそうだね。

 

                                                                                                              2022/ 11/ 13.