通信27-15 力士たちに風呂で囲まれた思い出

 街中に変な髪型をした大男たちが溢れていると思ったら、そうか、もう九州場所の季節なんだ。秋らしい澄んだ青空と、乾いた空気に誘われて、昔住んだ街の方へと足を伸ばしてみた。今はその面影を失いつつあるが、かつては古い学生街だったその街へ潜り込んだのはもう三十年近くも前の事だった。

 

 不動産屋が苦手な私は、学生だった友人の手引きで彼が通っていた大学、その学生課のカウンターに置いてある学生向けの賃貸物件の資料を勝手に漁り、そこで見つけた空き家の家主を直接訪ね、無事家を借りる事ができた。別に騙した訳じゃない。あちらさんが私の風体を見て勝手に学生さんだと誤解して下さったんだ。私は大いに童顔だった。といってもちょいと学生には無理があるね。うん、すでにその時、私は三十歳の半ばを越えていた。それでも家主は私の事を大学院生か助手あたりと勘違いしてくれたんだ。おいおい、この阿呆面がどうすれば学士様のそれに見えるってんだい?

 

 その時借りた一戸建ての家。古い家さ。でも一人で住むには充分だ。おつりがくるね。私の前にはその大学の院生が妹と二人暮らしをしていたらしい。六畳と四畳半、便所と台所、なにやら嬉しい事に部屋が廊下で囲まれていた。近くには寺があって、夕方にはごおおおおんと鐘の音が部屋を通り抜ける。日当たりの良い廊下に寝転んで鐘の音に耳を澄ませながら夕陽に染まる空を眺める。ああ、薄ぼんやりした性格の男には最適の部屋じゃあないか。もちろん風呂はなかった。まだまだ街中には数軒の風呂屋が大活躍している時代さ。私も早速風呂に出掛けたが、うん、それがたまたま九州場所の最中だった。

 

 あれ?この街の風呂屋は随分と早い時間から賑わっているんだなと風呂場の引き戸を開けると、おお、何だ、この臭い?つんとくる柑橘系の臭い。そうさ、これがかの有名な鬢付け油の臭いってやつさ。うへえ、風呂桶に溜まった湯、その表面が油でぎらぎらと七色に光っているじゃないか。そしてそいつらが、その幕下?十両?ふんどし担ぎ?うん、相撲の事はよく知らない、ともかくその力士たちが腰を屈めるたびに、ぐうんとこちらに象のような巨大な尻が迫ってくるんだ。

 

 九州場所が終わり、これでゆっくり風呂に入れるかと思いきや、今度は一番風呂を地元のやくざたちと競う事になった。七色の油膜の代わりに七色の背中の模様。それにしてもやくざってのは何であんなに早い時間に風呂に入りたがるんだろう?いつも五六人で現れて、その中で一番の下っ端、そいつを徹底的に苛めるんだ。まさに風呂屋はやくざ稼業の修業の場って感じだね。ともかくお陰で随分とやくざの知り合いができたもんだ。

 

 うん、新しい街でのんびりした暮らしが楽しめるかと思ったが、やはりちょこちょことストレスが溜まりそうな事はあるもんさ。実は家主、矍鑠とした婆さんなんだが、実はこの人、なかなかのアルツハイマーを患っていたんだ。最近は私もそろそろ危ないと感じているんだが、アルツハイマーってのは怖いもんだねと初めて実感したのはこの時だった。という訳でこの続きはまた後日。

 

                                                                                                  2022/ 11/ 14.