通信24-32 編集だってひとりでできるもん

 録音が済んだら後は部屋に引き籠り、あれやこれやと、しこしこと、そう、編集ってやつに勤しむんだ。録音から編集まで、でも今回の作業、それは決して嫌な事ではなかった。サキソフォーンという楽器を一人で吹き鳴らし、うん、無伴奏という名の演奏形態があるんだ、マイクも自分で立てるし、レコーダーのスイッチも自分で押す。そこで録音した音源を持って自室にこもり、その音源をパソコンに読み込ませ、あとは勝手に弄り回す。すべて一人の作業だ。教育テレビの番組名ではないが「ひとりでできるもん」ってな訳さ。

 

 これまではほとんど全部の作業を人様にやっていただいていた。私はただ偉そうな顔をして指揮棒を振り回したり、ピアノを弾いたり、サキソフォーンを吹き鳴らしたりしていればそれでよかった。われわれ演奏者の回りを、息を顰めた人々がぐるりと取り囲み、あるいはそこがスタジオならば、大きなガラスの向こうから、その部屋の事を確か金魚鉢とか呼んでなかったっけ?ともかくそこから不安気な表情でじっと見つめていたり、私のミスで演奏が停まったりすると、皆、何事もなかったかのようにそわそわとあちらこちらに目線をさ迷わせ・・・、ああ、申し訳ない。

 

 結局、何が苦痛かと言うと、やはり人様に御迷惑をお掛けしてしまうってところさ。それでも自分の存在が、その迷惑に見合うだけの御利益を人々にもたらす事が確実に出来るならいいんだ。皆、大丈夫だ、こんどの仕事もそこそこ金になるさと笑顔で声を掛けてくれるんだが、ああ、そもそもこんな仕事、ただの賭けじゃあないか。金になるか、ならないかなんてさ。結果は誰にも分からない。博打、嫌な言葉さ。何という頼りない言葉。私はどうしようもない大酒呑みだか、博打だけは大嫌いなんだ。

 

 誰にも迷惑を掛ける事がなければ、うん、録音なんてこんなに楽しい事はないかもしれないね、などと嘯きながらも実はさ、ああ、無伴奏だけじゃあ面白くないねと、駄目元で秘かに伴奏をお願いしたりもしているんだ。もちろんそれは録音の仕事じゃあないんだけどね。自分の秘かなお楽しみのためにさ。冥途に持って行くお土産を調達するためにさ。  

 

 いやいや、こんな事は書いちゃあいけない。不用意に書かれたこんな文章だっていつ、誰の迷惑の元になるとも限らないからね。もう誰かに迷惑を掛けるのは御免さ。慎重に、賢くなるんだ。さあ、沈黙を守ろう。無言の行に勤しむスペインの修道士たちみたいにさ。

 

 ところで編集に疲れた私はちょいと一休みしようと珈琲を淹れ、何気なくインターネットニュースとやらを眺めていた。ふと目に留まった「彼の事が突然嫌いになった時」というタイトルの記事を、ん?クリックしてみたんだ。彼を嫌いになったその最初のケース、それは「彼がいつまでも納豆をかき混ぜている姿を見た時」というものだった。ええ?本当かねえ?そんな事で突然嫌われてしまうんだろうか?何故かその記事を読んだ時、私の頭の中には中原中也の「僕はひとのこころの頼りなさにいやというほど打ちのめされてしまったのだ」という詩句が浮かび、何だか失恋ってのは滑稽さと紙一重だねえと淋しく笑った。自分の思いもよらないところで秘かに事は進んでいるのさ、良くも悪くもさ、ああ、やはり生きている以上は博打ってやつに身を任せなきゃあならないのかねえ。

 

 ちなみに美食家としても有名な北大路魯山人によると、納豆は少なくとも百回以上は掻き混ぜないと美味くはならないそうだ。

 

                                                                                                          2020. 11. 6.