通信22-23 街にサーカスがやって来る

  近所にお住いのお姉さんから嬉しいお誘いをいただいた。お誘い?そうさ、サーカスに誘われたんだ。あの木下大サーカスだぜ。会社の忘年会のくじ引きで招待券を引き当てたんだって。「へええ、変な会社だねえ」などと呟きながらも嬉しくて「うふふふ」と笑みをこぼしてしまう。

 

 そうさ、私はサーカスってやつが大好きなんだ。といっても日本のサーカスがね。ちょいとうらぶれて、何となく悲哀が漂っているようなやつがさ。もし、これがシルクド・ソレイユだとかだったらちょいと迷ったかもしれないね。

 

 実は数十年前、木下大サーカスを観た事がある。まだ私は小学校の低学年だった。戦後の貧しさそのもののようにサーカスも暗い影を纏っていた。ほとんどの演目が記憶にない中、憶えているのはあまりサーカスとしては人気がなさそうな演目だけだった。象はいただろうか?虎は?熊は?うん、記憶にないんだ。空中ブランコは微かに憶えているような気がする。

 

 そんな中はっきりと覚えているのは「足芸」、仰向けに寝たお姉さんが、その両足を使って器用に襖をぐるぐると回し続けるんだ。時には襖の縁で独楽を回したりもする。何だか少し怖かった。不幸な感じがした。後に知ったんだがその襖には「恋しくば尋ね来てみよ 和泉なる信太の森の恨み葛の葉」という墨書がなされていたらしい。

 

 信太妻、歌舞伎や浄瑠璃の演目だ。といっても私自身は説経節の一つとして親しんでいる。人間の姿をした白狐が人と交わり子供を産む。別れる事を余儀なくされた白狐は上に書いた一首を残して姿を消してしまう。ちなみにその子供、童子丸というんだが、彼が後に陰陽師阿倍晴明となる。

 

 何てったって小学校低学年だった私に何一つ理解できるはずもなかったが、ともかく何やら触れてはいけないような暗い情緒を浴びるように感じていた事は確かなんだ。しかもその日の演目には「道成寺」、うん、安珍清姫の物語さ、そいつも並んでいたんだ。安珍に裏切られた清姫が怒りのあまり蛇の化身となり、鐘に逃げ込んだ安珍を鐘ごと焼き殺すというなかなかハードな伝説だ。その寸劇のクライマックスで、張り子の鐘から作り物の大蛇が現れた時、子供ながらにこけおどし的な滑稽さを感じながらもともかく暗い情緒の中に投げ込まれた気がした。うん、それ以来サーカスってのはさ、私にとって畏れの対象になってしまったんだ。

 

 フィデリコ・フェリーニのサーカス好きは有名だ。一体何本の映画にサーカスのシーンが出て来ただろう。巡業するサーカスの後を追って家出するという自身のエピソードも語っている。それエピソードの真偽は分からないが彼のサーカス好きは本物だろう。何もないはずの広場に一夜にしてテントを張り、いきなり興行を始める、子供時代にフィデリコがどんなにサーカスを愛し、かつ畏れたのか、それがよく分かる場面はやはり「道化師」の冒頭だろうね。家のすぐ横の空き地、靄が掛かったような淡い夜の中に突然そそり立つ白く巨大なテント、その様子を窓から覗いている幼いフェデリコ、うん、サーカスってものの本質をこれぐらい鮮やかに描いてみせた映画は他にないんじゃあないだろうか。

 

                                                                                            2019. 1. 17.