通信26-10 ああ、わが不細工な姫君の運命はいかに

 ここ一週間ぐらいだっただろうか、ほとんど機能しなかった目が、昨日の午後から少しずつ働き出してきた。上手く言えないが、強いて何かに喩えてみるなら、凍え、縮み上がっていた臓器が、次第に熱を取り戻してきたってな具合かな。

 

 ここ数日間、いつもよりも随分早く訪れた梅雨に、すっかり湿らされた布団に潜り込んで、ルービックキューブでも弄り回すように、頭の中で組み立てては壊し、また組み立て直す、そうやって少しずつ形を成してきた音を、うん、今日の夜はようやく少しではあるが、それらの音をさ、譜面に落とせそうな気がしているんだ。

 

 安堵?うん、そうだね、いささか安堵しているね。このまま書けなくなったらどうしようかなどと思っていたんだ。でも今回は、頭の中をぐるぐると飛び回っている音を、何とか書き留められそうな気がしている。捕まえた珍しい昆虫を、標本箱にピンで留めるように、頭の中から逃げ去ろうとしている音符を五線紙に刻み込もうって訳さ。

 

 それにしても活きた音楽を譜面に封じ込めるって事には、一体どんな意味があるんだろうかね。演奏して下さる方がいなければ、ただの落書きと同じさ、譜面なんてものはさ。王子様に接吻して貰うまでは、茨に囲まれたまま百年だって眠り続けなけらばならない童話の中の姫君のように、譜面もまた眠り続けるってな訳さ。ああ、我が不細工な、たっぷりと癖のある姫君、そんな姫君を見染めて下さるような特殊な趣味や、性癖を持った王子様がいつかは現れるのだろうか?

 

 そういえば今、やはり頭の中でまとめようとしている音楽史。ちょうど今考えているのは、初めて人々が記譜法と向き合う中世という時代の事さ。何とか人々の宝であるグレゴリオ聖歌をそのままに残そうと、試行錯誤を繰り広げた時代。

 

 記譜、音を書き記す。それは音楽にとって一つの大きな進歩といえるだろう。だからといって諸手を挙げて万歳ってな訳にはいかない。音楽を書き記す事によって人々は何を得、何を失ったのか?そうさ、確かに失ったものがあるんだ。

 

 などと言う事をあれこれ考えながらも、今日の私は、単純に音符を書くだけの視力が戻りつつある事を素朴に喜んでいる。ああ、まさに今、自分自身が記譜法の意味を問うためのサンプルにでもなったみたいだね。まあ、記譜法については後日、ゆっくりと書き記す事になる。

 

 ともあれ今日は梅雨の晴れ間だ。久々に朝陽が窓から差し込んで、ほらほら、部屋を急激に暖め始めたぞ。こんな感じだと、あっという間に室温は三十℃を超えるだろう。うん、そうだね、部屋の中で蒸し物に成り果てるぐらいなら、久々に川の向こうの街に、珈琲でも飲みに出掛けてみるかな。

 

                                                                                                        2021. 5. 22.