通信20-29 もちろんシーボルトに会った事はない

 一年ほど映画の仕事に携わったおかげで、大いに音が荒れた。「名前は長いが、効き目は早い」。うん、そいつはコルゲンとかいう薬の広告コピーだが、私の場合、「仕事は早いが、中身は薄い」ってな感じさ。映画の仕事を始めるまでは、紙に書き得るすべての音符を正確に書き記そうと、汗だくになって頑張っていたんだが、現場ではそんな悠長な暇はなかった。私が書き記す音符、それはしだいに譜面というよりは、ただのメモってな感じになっていったんだ。たくさんの音符をその場で書き直した。「そこのファの音にシャープをつけてくれるかな?」、「10小節目にクレッシェンドを」、さあ、本番行きまあす、せえのおどん。録音が終わると、私が持参したメモは、たちまちただの紙屑に早変わりだ。

 

 その時の私は、ともかく音を、正確な音符を、きちんとしたものを、そんな譜面を書きたくてたまらなかったんだ。ああ、でも実力、ともかくその時の私には、そいつが伴ってなかった。これからどうしようかと途方に暮れる私を、顔見知りの友人が、自分の師匠に会ってみないかと、私をそこに連れて行ってくれたんだ。

 

 そこで出会った師匠。I先生。うん、強烈な方だった。私はI先生以上に早口な人間に会った事はない。しかも滑舌が悪かった。われわれが四十八の文字を使って喋っているとしたら、先生は多分二十五文字ぐらいしかお使いになっておられなかったと思う。まさに言葉の洪水だった。話の最中に私が質問を挟んでも、いきなりは話が止められないらしく、さらに三つ、四つの文章を喋ってから、ようやく「何か言った?」と聞き返されるのだった。そういえば初めてお会いした時、名前を名乗った私に向かって「ご出身は?」と訊ねられた。長崎です、と答える私に、いきなり「長崎?シーボルトか?」と大声を出されたが、私は何と返事をしていいのか、全く分からなかったのでとりあえず「会った事はありません」と答えてみたら、俯いて「うん、うん」と大きく何度も頷かれた。

 

 ドイツ音楽の話をしておられるのだと思って聞いていると、あれ?いつの間にかフランス音楽の話にすり替わっていた。私がようやくそれに気づいた時には、話題はすでにドーヴァー海峡を渡ってイギリス音楽の話になっていた。世界一周、音楽の旅なんて、先生には大いに容易い事だったんだ。時折は冗談を仰るんだが、もちろん私には聞き取れなかったし、聞き取れたところで笑うツボがさっぱり分からなかっただろう。それが冗談だと分かるのは、言い終わった後で先生が肩を震わせ、一人で笑っておられるからだ。

 

 先生の元で勉強する間、私は常に緊張して譜面を書き続ける事ができた。でも、私が何日も夜なべをして書いた譜面について、先生が何かアドヴァイスを下さる事は一度もなかった。私が書いてきた譜面をじっと眺めて、時折、書き間違いがあると、その点をはっきりと指摘して、ミスだけは絶対にするなとそれだけを繰り返し言われるのだった。先生は若い時、ベルリンで仕事に就いておられたそうで、そこでは一度でも小さなミスをするとたちまち仕事を失うという事を、しつこいぐらいに言われた。ああ、私の粗忽さなどとうにお見通しって訳さ。

 

 それ以外にはギャラの受け取り方について、何度も教えられた。どんなに良い仕事したからといって、その仕事に対する正当なギャラを受け取る事ができなければプロとはいえないと。これは随分と後になって本当に身に染みた。口約束なんて平気で破られる世界だったんだ。この音楽の世界ってとこは。

 

 私は、I先生にとって外様みたいなもんだったが、先生に幼い頃から習っていたスズキという女流作曲家、彼女が小さい頃書いた譜面を見せてもらった事があるが、そこにはI先生の手になる朱が一面を覆うようにびっしりと入っていた。I先生は、相手にとって本当に必要な事だけを教えてくださるような方だったんだ。ちなみに私が知るスズキは常に、音楽に対して真摯な態度で向かいつつ、他人に対しても手を差し伸べ続ける「マザーテレサ」みたいな作曲家だった。うん、本当は糞真面目な秀才タイプのやつで、やたら人におせっかいをしたがる「下宿屋のおばさん」みたいな作曲家だったと書きたいんだが、そうは書かない。うん、スズキがこのブログを読んでいる可能性は高いんだ。

 

                                                                                               2019, 6. 4.