通信26-6 結局はギリシャ悲劇のテキストへと

 毎日使っているスタジオがとうとう閉鎖されてしまう事になった。とりあえず五月一杯閉鎖の予定だが、伝染病の広がり方によっては十分に延長の可能性あり、という事でいささかしょげている。去年の今頃は丁度三ヶ月に渡ってスタジオを使う事ができず、鯵の干乾しにでもなったような気分で鬱々と日々を過ごした記憶がある。まあ、仕方がない事だ。という訳でその隙に、ずいぶんと長い事、腹の中に溜め込んだままにしていた「水の流浪」第三集というサキソフォーンとピアノの為の曲を仕上げる事にした。

 

 記譜という行為は一体何なのだろう?記譜により人々は何を得、何を失ったのか、そういう事を、身を以て考えるためにサキソフォーンという楽器を手にしたのは三十年ぐらいも前の事だった。即興演奏の可能性を、意味を知りたかったんだ。演奏を体験するためなら、自身に一番馴染みの深いピアノという楽器を選べばよかったんだが、ああ、やはりピアノという楽器はでかすぎるよね。自分では持ち運びできないし、引っ越しのたびに大いに頭を悩ませなければならない。若い頃、とうとうピアノという楽器から解放されるべく、そいつを売り飛ばした時には寂しさと同時に、それの十倍ぐらいの解放感を感じたもんさ。

 

 それからサキソフォーンという楽器をぶら下げて、街をふらふらと歩き続けた。とても楽しい日々を過ごした訳だが、ちょいとこの楽器に入れ込み過ぎた。さあ、そろそろ人生とかいうやつの仕上げに入らなきゃあいけない。という訳で最後のサキソフォーンの曲を書こうと、いささか力んでいたところさ。スタジオが閉鎖されるのが今度の水曜日、さあ、その次の日から、腹の中に溜め込んだモティーフを整理して、そいつを作品として紙の上に書き出すんだ。

 

 古代ギリシャ、やはり改めて考えてみると資料が少なすぎるね。歴史は書き留めるものという発想が今のわれわれとは随分と違っているんだ。ピタゴラスは文字を信用していなかったと書いたが、そのピタゴラスが活躍したのが紀元前6世紀頃、アルファベットが確立したのが紀元前5世紀といわれているから、まだまだ文字が不安定な頃さ。ただの発音記号に過ぎなかった訳だね。そういえば当時は一行目を左から右に書き出し、端まで行くと今度は右から左に折り返していたらしい。

 

 ここ十数年ほどで、ようやく当時の譜面の解析が可能になったらしく、私もいくつかの資料をとても興味深く読んだ。それまでに目にし、耳にした古代ギリシャの音楽は何やらともかく胡散臭いものばかりだったんだ。古代ギリシャの音の再現を謳った作品はどれも、現代の作曲家の頭の中に浮かんだ彼自身の妄想の音楽に過ぎないものにしか思えなかった。といっても、それはそれで良いと思っている。出来上がった作品がわれわれの心を打つものであればそれで十分だと、そう思っている。

 

 いつぞやアメリカの大学が、コンピューターを駆使した十年ほどの研究の結果、古代ギリシャの譜面の解析に成功したという論文を音と共に発表したが、これもなかなか物悲しいものだった。まだ世の中にコンピューターなどというものが普及する前の事、コンピューターを使ったなどと誇らしげに宣伝する姿勢に、何やら浅ましさを感じたもんだ。

 

 近代史を語る上で百年の誤差があれば、それはもうえらい事だろう。それなのに数百年をまとめて古代ギリシャなどと乱暴に一括りに語る自分自身にも、たいそうな滑稽さを感じている。歴史家などではない、音を書き並べるだけの作曲家の自分が何をするべきであろうか。ともあれ古代ギリシャに対する深い敬意と興味は常に変わらない。

 

 元々、私の手元には三十あまりのギリシャ悲劇のテキストがあった、ただそれだけの事だった。もう一度それらのテキストを丁寧に読み込み、うん、何しろそこには現代のわれわれの事が、まるで予言の書のように、そのままに書き記されているんだ、そこから生き生きとした常に変貌を続ける歴史というものを推し量ってゆくだけさ。という訳で持ちきれないほどの宿題を抱えたまま先に進もう。

 

                                                                                                      2021. 5. 9.