通信24-26 知る事の悲しみ

 最近、中世以前のスタイルで曲を書く事が多い。まるで擬古文を用いるみたいにさ。なんでそんな事をしているのかって?もちろんその先に自由があるかもしれないと思っているからだ。でも、この模倣ってやつはそう簡単じゃあないね。上っ面を真似てそれらしいものを作る事はできる。うん、こっちはそんな仕事をもう何十年も続けているんだ。他人様を一時的に騙す事はできるかもしれないが、ああ、やはり自分自身を騙す事はできないね。

 

 じゃあ中世以前のスタイルを用いて作曲する事が何故難しいのかというと、たとえば中世以前の人々には、旋律に和音をつけて歌うなどという発想はなかった。今、現代は?そうさ、そこらのあんちゃん、姉ちゃんだって小粋にギターを抱え、じゃんじゃんじゃかじゃかとコードを掻き鳴らしながら声を張り上げているじゃないか。誰もが旋律にはコードがくっついていて当たり前だと思っている。でも実は、人々が思っている以上にコードの力は強いんだ。コードってのはいつの間にか旋律さえも軽々と支配してしまうが、その事に気づいている人は殊の外少ない。

 

 おっと、話がなんだかややこしくなってしまったね。率直に言うと、要するに私はコード進行というものを知っている。そんな私がコード進行という概念すらなかった時代の人々の真似をする事は根源的には不可能だという事さ。うん、ここが難しいところだ。不可逆性とでもいうのかね、ともかく物事は一旦知ってしまえば、もう二度と知らなかった状態に戻る事はできないんだ。これが知性というものの怖いところさ。

 

 結局、中世のスタイルで音楽を書く事はできない。でも中世のスタイルを踏まえて、これまでにまったくなかった新しい音楽を作る事ならできるだろう。今の自分にできる事、それはコードに縛られる事のない自由な旋律の起伏、ああ、今となってはすっかり失われてしまったその起伏に憧れ続けるだけさ。

 

 ところでかの文豪ゲーテ大先生は、恋愛は初恋以外に意味はないなどという事を仰っていたような。つまり二度目以降の恋愛は、一旦恋愛に終わりがあるという事を知ってしまった上での行為だから初恋ってものとはまったく違う物だって事さ。確かに初恋の尊さってのは、それが永遠に終わる事のないものだと信じられるところにあるのかもしれないね。

 

 ものを知るって事は、ある意味とても怖くて酷い事かもしれないね。知ってしまった途端に、目の前にひろがる世界が取り返しのつかないぐらい味気ないものに変わってしまう事だってあるだろうしね。

 

                                                                                                         2020. 10. 31.