通信27-12 赤豚ってどんな味がするんだろう

 前回のブログで遺影について書いたりしたものだから、読んでくれた知人から「暗い気分になるような事を書かないで欲しい」などという連絡をいただいた。それは申し訳ない。やはり「遺影」という言葉がよくないのか。ならばいっそカタカナで「イエイ」と書いてみればどうだい?ほうら、何だか明るい気分にならないかい?

 そんな事はさておき、今日も近所の川まで歩いた。私が住む街と、隣町の間に流れる大きな川、今はどうしてもこの川を渡る気にならないんだ。鬱陶しい眩暈のせいさ。突然の眩暈に襲われ、ばたりと倒れたとしても、川のこちら側なら何とか這ってでも帰れる気がするんだ。ああ、何と情けない。この眩暈ってやつ、そうさ、私にとって鎖みたいなものなんだ。鎖に繋がれて犬小屋の周りをぐるぐる回るだけの犬みたいに、私も眩暈に繋がれて自分の部屋の周りをとぼとぼと歩き回るんだ。

 

 でもそれって悪い事ばかりじゃないさ。遠出ができないお陰で原稿がおおいに捗るんだ。伴奏など一切つかないサキソフォーンのための小品、そいつを書けるだけ書こうとしている真っ最中だ。もう時間はない。一曲でも多く書きたい。自分が書ける音は一つ残らず書いてしまいたいと思っている。

 

 まずは手慣らしって訳だ。慣れ親しんだヨーロッパの古い歌を幾つか書き落してみる。和音も出せないサキソフォーンという楽器のために書く、うん、そいつがみそさ。われわれはヨーロッパの音楽を学ぶときにまずは四つの声部を調和させる事から始める。ほら、学校で教わらなかったかい。ソプラノ、アルト、テノール、バスという四つのパートで響きを作るんだ。低い声部の上に次々と高い声部を積み上げて、うん、大地の上に空があるみたいにさ。ようするに世界の縮図を拵えるって訳さ。完全無欠なこの世界の縮図を描き出す。それが作曲という行為の最後の目標さ。

 

 この四つの声部で描くべき音響を一本のサキソフォーンで描こうとしているんだ。まさに至難の技って訳だね。でも実はお手本があるんだ。セバスチャン・バッハという恐ろしい天才が音楽の世界にはいたのさ。一見、一段の五線に小さな音符がつらつらと並んでいるようにしか見えない、でもその並んだ音符はひとつひとつが旋律の断片だったり、旋律を支えるバスだったり、旋律に複雑に絡み合う対旋律だったり。ひとつひとつの音の役割を見つけ、それにふさわしい性格を与えると、たちまち立体的な音の像が現れる。そして何よりも凄いのが、旋律も、対旋律も、バスもそれらすべての要素がどれも生き生きと書かれているんだ。おいおい、こんなのを神業って言うんじゃないのかね。

 

 うん、もちろん偉そうな事はいわない。もはやこれ以上バチを被るのは御免さ。でもこんなできそこないの私でも、この大先生の書いたものをお手本に、少しでもましなものを書きたいと思っているんだ。

 

 それにしてもここ数日、家の周りが随分とうるさい。窓から外を見ると、おお、隣り合わせた建物が二軒同時に工事をしているじゃないか。斜め向かいのマンションの一階の空いたスペースにどうやら小さな事務所みたいなやつを作っているみたいだ。その隣はというと、うん、もう看板ができているじゃないか。「赤豚肉販売所」?一体なんだ、そりゃ。黒豚ならよく目にするが、赤豚ってのもいるのかねえ。まあ、いいさ、そういう訳で昼間は仕事が手に付かず、耳栓を突っ込んだまま不貞寝をして過ごした。さあ、すっかり夜も更けた今、これから夜を徹して作曲しようってのさ。眠気覚ましにこんな変な文章を書いてね。ああ、何だか気持ちがぎらぎらしてきたぞ。

 

                                                                                                        2022/ 11/ 9.